「キリストを通して神に」

 「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。」(第二コリント5:19)

 聖なる歴史のすべてのページは、主の選ばれた民達に対する神の扱われ方が記され、そして、『有ってある者』といわれる大いなる方の強烈なみ足のあとが存在しているところである。神のご臨在のこれらのすべての啓示の中で、神の栄光はキリストを通してあらわされた。救い主の来臨においてだけでなく、堕落と、救いのみ約束後の全時代を通して、『神はキリストにおいて世をご自分に和解させ』られた。キリストは、父祖の時代とユダヤ人の両時代を通して、犠牲制度の基礎であり、中心であった。私達の最初の両親が罪を犯して以来、神と人間との間には直接の交わりはなかった。天父は世をキリストのみ手に与えられた。そして、主の仲保の働きによって、人間を救い、神の律法の権威と神性とを擁護しようとされたのである。天と、堕落した人類との交わりのすべては、キリストを通してなされている。私達の最初の両親に救いの約束を与えられたのは、神のみ子であった。ご自身を父祖たちにあらわされた方は主であった。アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセは福音を理解した。彼らは、人間の身代わり、そして、保証人による救いを待ち望んだ。……
 聖所の神聖な奉仕は、各時代を通してあらわされねばならなかった根本的な真理を象徴していた。イスラエル人の祈りと共にのぼっていった香の雲は、罪人の祈りを神に受入れていただくことを可能にする唯一の主の犠牲を表している。犠牲の祭壇の上で、血を流したいけにえは、来たるべき贖罪者を示していた。至聖所から神のご臨在を見ることのできるしるしが輝き出ていた。暗黒と背教の時代を経ても、信仰は約束されたメシヤの来臨が到来した時まで、人々の心に生き続けた。イエスは、人間のかたちをとって地上に来られる前から、ご自分の民の光一世の光であられた。…地上の住民の上に投げかけられた天の輝かしい光線のすべては、主から来た。救いの計画においてキリストは、アルファであり、オメガ、初めであり終わりであられるのである。(PP366,367)

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