「対照的なヨハネとユダ」


 「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。」(ヨハネ第一5:12)

 キリストと親密に交わった数年間に、ヨハネはしばしば救い主から戒めと注意を受けた。そして彼はこうした叱責を受け入れた。聖なるかたのご品性が現されたとき、彼は自分の欠点を認め、その啓示によって謙遜にされた。毎日彼は自分の激しい気性とくらべて、イエスの柔和と寛容を見、謙遜と忍耐の教訓を聞いた。毎日彼の心はキリストに引きつけられ、ついには主に対する愛によって自己がかき消されていった。ヨハネが神のみ子の日常生活の中に力とやさしさ、威厳と柔和、強さと忍耐を見たとき、彼の心はただ、感嘆するばかりであった。彼は自分の憤慨しやすい、野心的な性質をキリストの形成する力にゆだねたので、天来の愛が彼のうちに働いて、品性を一変させたのである。
 ヨハネの生涯において達成されたきよめと著しい対照を示して、仲間の弟子ユダの経験がある。同僚と同じく、ユダもキリストの弟子であると告白していたが、彼の敬神はほんの形だけのものだった。ユダはキリストのご品性の美しさを感じなかった。そしてしばしば救い主のことばを聞いているとき、彼に改心の気持ちがあらわれたのだが、彼は謙遜な心になり、罪を告白しようとしなかった。……ヨハネは自分の欠点と真剣に戦ったが、ユダは良心を汚し、誘惑に負けて、悪の習慣を更にしっかりと身につけてしまった。キリストが教えた真理を実行することは、彼の願望と目的に一致しなかった。そして、彼は天来の知恵を受けるために、自分の考えを捨てるように自分を動かすことができなかった。ユダは光の中を歩くことをせず、闇の中を歩くことを選んだ。悪い願い、強欲、復讐心、暗く陰気な思いが彼の心をとらえ、ついにサタンに全く支配されるまでになった。
 ヨハネとユダは、キリストの弟子だと告白した人たちを代表している。この二人の弟子は、同じようにキリストの模範を学び、それに従う機会を持っていた。二人ともイエスと密接に交わり、主の教えを聞く特権を与えられていた。二人はそれぞれ性格に大きな欠点があったがまた、二人とも、性格を変える聖なる恵みに接することができた。しかし、一人が謙遜にイエスのことを学んでいる間に、もう一人はみことばを実行せずただ聞くだけであった。一人が日ごとに自己に死に、罪に勝利して、真理によってきよめられていたのに、他方は、恵みの変える力を拒み、利己的な願いにふけり、サタンのとりこにされた。……
 人にはそれぞれ性格に目立つ欠点があるかもしれない。しかしその人が、キリストの真の弟子になると、神の恵みの力により変えられ、きよめられるのである。(患難から栄光へ下巻260〜262)

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