「キリストの愛は十分な泉」


 「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない。」(ヨハネ4:14)


 キリストはヤコブの井戸の所でサマリヤの女に何と言われたであろうか。……「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:13, 14)。
 キリストが言われたその水は、そのみ言葉の中にあるこのお方の恵みの啓示であった。キリストの精神、教え、愛はあらゆる魂に対する十分な泉のようなものである。人がより頼むあらゆる他の源は十分ではないことを証明するが、真理のみ言葉は、レバノンの水として表されている冷たい流れのようなものであって常に十分で満足させる。キリストのうちには絶えざる喜びが満ち溢れている。世の快楽や娯楽は、決して魂を満足させたり癒すことがない。しかしイエスは、  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があ」ると言われる。
 キリストのみ言葉のうちにあるこのお方の恵み深い臨在は、のどの渇きをいやす生ける水の井戸のように、このお方をあらわしつつ絶えず魂に語りかける。わたしたちに生きた永遠の救い主がおられるというのはわたしたちの特権である。このお方はわたしたちのうちにある霊的力の源であり、このお方の感化は、すべての人に力強さと純潔、聖潔、また平安、そして、悲しみをもたらす事のない喜びに対する願いと切望を起こさせつつ、わたしたちの影響力の範囲内にいるすべての人の元気を回復する感化力を、その言葉と行動の中に注ぎ込むのである。そのような経験は、キリストが内住する救い主となっている結果である。
 〔イエス〕はかつて地上を人として歩かれたが、その時はご自分の神性に人性をまとい、苦しみ誘惑を受ける人としてサタンの策略に取り囲まれた。……今このお方は神の右に座し、わたしたちのために仲保をなさりつつ、弁護人として天におられる。このことを思う時、わたしたちは常に慰めと希望を持たねばならない。イエスはこの世で誘惑のもとにおかれている者のことを考えておられる。このお方はわたしたちのことを個人的に考え、わたしたちのあらゆる必要を知っておられる。誘惑を受けた時は、ただ「イエスはわたしのことを心配して下さっている。このお方はわたしのために仲保をし、わたしを愛し、わたしのために死なれた。わたしは全面的に自分自身をこのお方にささげよう」と言いなさい。
 自分が自分自身の救い主であるかのように、わたしたちが自分のために悲嘆にくれる時、わたしたちはキリストの心を悲しませる。そうではなく、わたしたちは自分の魂の守りを忠実な創造主である神に委ねなければならない。このお方は試みられ誘惑される者のために仲保をするために永遠に生きておられる。あなたの心を義の太陽の輝く光線に向かって開き、わずかといえども疑わず、不信の言葉を一言も唇からもらさず、疑いの種を播かないようにしなさい。わたしたちのために豊かな祝福があるのだから、それらを信仰によってつかもうではないか。あなたが主にあって勇気を持つようにと、わたしは懇願する。神の力はわたしたちのものであるから、勇気と力と信仰を語ろうではないか。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1896年9月3日)

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