「真理はわたしたちを解放する」

 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)


 わたしは、わたしたちの教会のために心配し、教会のなすべき弁明を思って神のみ前に震えおののいている。わたしたちは聖書の光をもっているので、大切にしていない光すべてについて申し開きをする責任がある。……
 わたしたちの不信仰とキリストに似ていない態度を追い払うために、聖霊の力が必要である。わたしたちは医者が必要であることを知らなければならない。わたしたちは病気であるが、そのことが分っていない。主がご自分の働き人の心を改心させて下さるように!改心した伝道者が一人いるなら、その結果が期待される。しかしわたしたちは自分自身の心を改めることができない。この働きは、聖霊の力によってのみ行うことができる。働きのあらゆる段階で、「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」というみ言葉を覚えていなさい。……
 キリストはわたしたちに助け主を送ると約束された。その助け主の働きは、魂の内に神の王国を設立することである。そのように豊かなあわれみと恵みと平安の備えがなされている時に、人間はなぜ、真理が奴隷のくびきであるとみなしているかのように行動するのだろうか。なぜなら、主が慈しみ深いことを、その心が味わったことも見たこともないからである。神のみ言葉の真理が、ある人々には足かせのように思われている。しかし人を解放するのは真理である。それゆえ、もしも真理があなたを解放するなら、あなたは本当に自由になる。真理は人をその罪から引き離し、悪を行う先天的、後天的な傾向から引き離す。キリストの愛を大切にする魂は、自由と光と喜びに満ちている。そのような魂の内には二心の思いはない。その人の全人格が神を慕い求める。そのような人は自分の義務を知るために人間の所へは行かず、すべての知恵の源であるキリストの所へ行く。彼は神のみ言葉を探るがそれは、自分が到達しなければならない標準が何であるかを見つけるためである。
 わたしたちは、イエスよりも確かな導き手を見つけることができるであろうか。真の宗教は、思いと言葉と行為において聖なるお方の指導のもとにあることである。道であり真理であり命であるお方は、へりくだった熱心な、全身全霊をこめて求める者を受け入れて、「わたしについてきなさい」と言われる。このお方はその人を聖潔と天への狭い道に導かれる。キリストはご自身で大きな代価を払って、わたしたちのためにこの道を開かれた。そしてわたしたちは、闇の中で、わたしたちの道をつまずきながら歩くままにされてはいない。イエスはわたしたちの右側におられ、「わたしは道であるから、主に従うと決心する者はみな、主の贖われた者が歩むようにと備えられた王の道へと導かれる」と宣言される。……
 どのような種類の器が主なるお方の使用に耐えるのであろうか。空の器である。わたしたちが魂のあらゆる汚れを空にする時、用いていただける準備ができる。……御霊が思いと心に働く時、自己が死ぬ時、真理は絶え間ない広がりと新しい発展を可能にする。(レビュー・アンド・ヘラルド1899年2月28日)

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