「いつでもどこでも祈るのにふさわしい」


  「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」(ヨハネ14:14)


 神に祈りをささげるのに、不適当な時とか場所とかはありません。熱心な祈りの精神をもって心を天に向けるのに妨げとなるものはなにもありません。雑踏した路上でも、商取引の最中でも、ちょうどネヘミヤがアルタシャスタ王の前で自分の願いを告げたときのように、神に願いをささげて導きを請うことができます。祈祷の密室はどこにでもあります。私どもは、絶えず心の戸を開いて、イエスに天来の客として心のうちに住みたもうよう招待しなければなりません。
 たとえ私どもは、汚れた腐敗した空気につつまれていても、その毒気を吸う必要はなく、天のきよい空気の中に生きることができます。真剣に祈って心を神の前に高め、不潔、不正な思いが入らぬようあらゆる戸を閉じることができます。神の助けと祝福を受けようと心を開いている者は、この世の人よりはきよい雰囲気の中を歩き、天と絶えざる交わりを続けることができます。
 私どもはイエスをもっとはっきりながめ、永遠なるものの価値をもっと十分に知らねばなりません。神の子らの心は、きよい美しさに満たされなければなりません。そして、これが成就するために、私どもは天の事柄をあらわしていただくよう神に求めなければなりません。
 神が天の雰囲気の一息でも呼吸させてくださるよう、心を世より離して天へ向けましょう。もし、私どもが神のそば近くにいれば、どんな試みが不意におそってきても、ちょうど花が太陽の方を自然に向いているように私どもの心も神に向くようになります。
 どんな望み、喜び、悲しみ、わずらい、恐れもみな神の前におきましょう。なにをもってきても重すぎたり、神を疲れさせたりすることはありません。頭の髪の毛でさえ数えたもう神は、子らの必要に無関心ではおいでになりません。「主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである」(ヤコブ5:11)とあります。愛にみちた神のみ心は、私どもが悲しみを口にしてさえ心をいためたまいます。心をわずらわすことはなんでも神に申し上げましょう。神は諸世界をささえ、全宇宙のすべてを支配したもうのですから、神にとって大き過ぎてささえきれぬというものはないのであります。私どもの平和にかかわることであったならばどんなことでも、小さすぎてお気づきにならないということはありません。私どものどんなに暗い経験も、暗すぎてお読みになれないということはありません。またどんなに難問題でも、神には解釈できないということはありません。……神と各々の魂との関係は、あたかも神がただそのひとりのために愛するみ子を与えたもうたかのごとくに、はっきりとした完全なものであります。(キリストへの道136〜138)

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