「肉体と精神の関係」

 「すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:8)


 体内には低い欲望があって、それがからだを通して活動する。「肉」「肉体的な」また「肉体的欲望」という言葉は、低い堕落した性質を包含している。肉体はそれ自体神のみこころにさからって行動することはできない。わたしたちは、情と欲と共に自分の肉を十字架につけなければならない。ではどうすればよいか。からだに苦痛を加えるべきであろうか。加えてはならない。だが罪の誘惑にとどめをさしなさい。堕落した思いを追い払いなさい。すべての思いをイエス・キリストの中にとりことしなさい。すべての動物的な欲望を、魂のより高い力に屈服させなさい。神に対する愛が最高に支配していなければならない。キリストは分裂していない王座にすわりたまわねばならない。わたしたちのからだは、キリストに買い取られた財産であると考えねばならない。からだの各部分は義の器とならなければならない。(アドベンチスト・ホーム131, 132)
 神のご要求に厳格に従うと、身体と心の健康に益となる。道徳と知性が最高の基準にまで達するためには、恵みと力を求め、あらゆる生活習慣において厳格な節制を行う必要がある。ダニエルとその友人たちの経験の中に、食欲を欲しいままにするという誘惑に打ち勝つ原則の勝利の実例がある。このことは、宗教の原則を通して、若い人々が肉の欲に打ち勝ち、大きな犠牲を払うことになったとしても、神のご要求に忠実なままでいることができるということを、わたしたちに示している。……
 わたしたちは、使徒が、「神のあわれみによって、彼らのからだを『神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として』ささげるように」と、兄弟たちに懇願する彼の言葉をよく考えるべきである。これが真の聖化である。聖化は単なる理論や感情、あるいは言葉の表現形式ではなく、生きた活動的な原則であり、日々の生活の中に入り込んだ原則である。これはわたしたちの飲食、衣服の習慣が身体的、精神的、道徳的健康の維持を確保するためであり、主に対してわたしたちの身体を、悪い習慣によって堕落してしまった供え物ではなく、「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」ささげることができるためである。……
 身体的な性質と道徳上の性質はお互いに密接に影響を及ぼしている。……真に清められている人々は、何処にいても、身体の正しい習慣を保つことによってまたダニエルのように、他の人々に節制と克己の模範を示すことによって、道徳上の基準を高める。あらゆる堕落した食欲は、戦いを挑む欲となる。自然の法則と争うものは何であっても魂を病気の状態にする。……
 キリストの奉仕に備えて、全能力を完全に活気に満ちた状態に保つことができるために、クリスチャンは自分の習慣をどれ程の心配りをもって統制すべきであろうか。(レビュー・アンド・へラルド1881年1月25日)

↓クリックをお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村