「人生の真の喜びを享受する」

 「わたしは……主をほめたたえる。主はわが顔色を健やかにされる。主はわが神である。」(詩篇42:11英語訳)


 賢者は、知恵の「道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である」と言っている。多くの者は、神への献身が健康と人生の社会関係における楽しい幸福にとって有害であるかのような印象をもっている。しかし知恵と聖潔の道を歩む人々は、「信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」ことを見出すのである。彼らは人生の真の喜びを享受するのに聡く、また逆に世の人々が何か興奮するような娯楽がないときにしばしば感じるように、浪費した時間を虚しく後悔することもなく、思いが陰鬱になったり、嫌になったりして悩むこともない。
 多くの自称クリスチャンの想像力が病んでおり、聖書の宗教を正しく表していないのは事実である。彼らはいつも雲の下を歩いている。彼らはまるで気分の落ち込みや大きな試練や、厳しい戦いについてつぶやくことが徳であるかのように考えているようである。こうした行動は、救い主の次の言葉に調和しない。「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。光のうちを歩み、快活な思いの習慣を養って、自分たちが薄暗がりや闇ではなく、むしろ光を反射できるようにすることがすべての人の義務である。
 信心は健康の法則と矛盾することなく、かえってそれらと調和するのである。もし人類が十誡にいつも従順であったならば、彼らがいつもこれらの十の規則の原則を生活上で実行していたならば、今この世界にあふれている病気ののろいはなかったのである。人は、思いを意気消沈させないでおくために、軽薄な娯楽が必要であると教えるかもしれない。実際、一時はそのようにして気がまぎれるかもしれない。しかしその興奮が冷めると、静かに省みる時間がおとずれる。良心が目覚め、そしてその声が「これは健康と心の幸福を得る方法ではない」というのが聞こえるようになる。
 思いを興奮させるような娯楽が多くあるが、その後には必ず憂鬱が続く。他の様式のリクリエーションは、無邪気で健康的である。しかし肉体的な運動を与える有益な労働は、しばしば思いにとってさらに有益な感化を及ぼし、またそれと同時にそれらが筋肉を強め、循環を良くし、そして健康の回復にとって効果的な方法であることがわかるのである。
 「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。……正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される」。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1884年10月23日)

ブログランキングに参加しています。

よろしくお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村