「キリストは両親の重荷を取り除かれる」

 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。……わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:28, 29)


 クリスチャンの母親の働きに匹敵することのできる働きはない。彼女は、子供たちを自然と神の訓戒の中で育てるというのがどういうことであるかを自覚して、自分の仕事にとりかかる。母親はどれほどたびたび、自分が負うことのできる以上にその負担を重く感じることであろうか。そしてその時、祈りの中で憐れみに富んだ救い主にそれをすべてゆだねることのできる特権をどれほど尊く感じることであろうか。彼女は自分の重荷を救い主の足元におき、自分を支え、最も試練の中にあるその時に、快活さと希望、勇気、そして知恵を与える力強さを、このお方のご臨在の中に見出すことができる。心配と責任でやつれた母親が、困難な時にはいつでもそのような友がいるということに気づいているというのはなんとありがたいことであろうか。もしも母親がもっとたびたびキリストの所へ行き、もっと十分にこのお方を信頼するなら、母親の重荷は軽くなり、魂に休息を得るであろうに。
 イエスは子供たちを愛しておられる。子供たちを育て教育するにあたっての重要な責任を母親だけに負わせるべきではない。……父親は元気づける笑顔と親切な言葉で彼女の気苦労の多い働きを支え、励ますべきである。……母親は子供たちに注意を払い、この子供たちのために時間を費やさねばならない。……聖書の基準に合うように子供たちを教育するには、時間と忍耐と祈りが要求される。もしも家庭内で何かがおろそかにされているなら、このことによく注意を払うべきである。
 一日のうちの大半が「お母さん」という呼び声である。まずささいな困ったことで「お母さん」という声がおこり、次から次へと続く。呼び声に応えて、母親は子供たちの要求に応えるためにそこかしこへと出向かなければならない。……是認する一言によって日光が何時間も心に差し込む。母親は、大切な子供たちの周りのそこかしこに、光と喜びの尊い輝きをたくさん注ぐことができる。母親は可愛い子供たちを自分の心にどれほど身近に結びつけることができることか。そのためには母親の存在が子供たちにとって、世界で一番明るく日の照る場所でなければならない。
 しかし母親の忍耐が、ほとんど注意を払う価値がないように思える数多くのささいな試みによって、しばしば切れてしまう。……何度もほとんど我を忘れてしまうが、憐れみ深い贖い主への黙祷は母親の神経を静めるので、静かな威厳をもって自己抑制の手綱を引き締めることができる。母親は落ちついた声で話すが、厳しい言葉を出さず、怒っている気持ちを抑えるのには努力を要する。もしもそれが出れば、影響力を失い、これを回復するには時間がかかるのである。……自分が神に取り扱っていただきたいと思うように自分の子供たちを取り扱うべきである。
 子供たちはクリスチャン品性を形成し、この世で他の人々を祝福し、来世の喜びを経験するのにふさわしくなることができるために、賢く教育し、忍耐強く訓練するようにと、わたしたちに委ねられた主の家族の若い一員なのである。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1877年9月13日)

よろしくお願いいたします。

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