「イエスの尊さを表しなさい」

 「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。……彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』。」(ルカ24:15〜32)
 まだキリストを知らない人びとに、キリストのことについて語るようにしなければならない。わたしたちは、キリストがなさったようにしなければならない。キリストは、会堂であろうと、路傍であろうと、岸から押し出された舟の中であろうと、パリサイ人の宴会であろうと、取税人の食卓であろうと、どんな場所であっても、高尚な生活に関することを人びとに語られた。主の教えの中には自然の事物や日常のできごとなどが織り込まれていった。また、イエスは、病をいやし、悲しんでいる人を慰め、子供たちを腕に抱いて祝福されたりしたので、聴衆の心は、イエスにひきつけられた。イエスが一度、口を開いてお語りになると、人びとは、すいこまれるように聞き入り、その一言一言は、だれかの魂にとって、いのちからいのちにいたらせるかおりであった。
 わたしたちも同様でなければならない。たとえどこにいようとも、救い主のことについて、人びとに語る機会をとらえるようにしなければならない。わたしたちも、キリストの模範に従って善を行なうならば、人びとがキリストに心を開いたように、わたしたちにも心を開くのである。無作法な態度で話すのではなくて、神の愛から生じた気転を働かせることによって、「万人にぬきんで」「ことごとく麗しい」救い主のことを彼らに語ることができる(雅歌5:10, 16)。これこそ、ことばのタラントを最高に用いる方法である。(キリストの実物教訓313, 314)
 人類と利害を一つにされたキリストの模範は、キリストのみことばをのべつたえる者やキリストの恵みの福音を受け入れた者のすべてが従わねばならない模範である。われわれは社交的なまじわりをたちきるのではない。他の人たちから孤立してはならない。あらゆる階級の人々に接するためには、われわれは彼らのいるところで彼らに会わねばならない。彼らの方からわれわれを求めてやってくることはめったにない。講壇からだけでは人々の心は天来の真理に動かされない。もう一つの働きの領分がある。それは目立たないかもしれないが、大いに有望である。それは身分のいやしい人々の家庭に、身分の高い人々の邸宅に、もてなしの食卓に、無邪気な親睦の集りの中にみいだされる。……
 どこへ行くにも、われわれはイエスをいっしょにおつれし、人々に救い主のとうとさを示すのである。……社交的な関係を通して、キリスト教は世の人々と接触するようになる。天来の光を受けた者はだれでもみな、いのちの光であられるキリストを知らない人々の道を照すのである。……
 キリストに従う者たちが、人間ではあるけれども神の性質にあずかる者であることを示すとき、キリストはおよろこびになる。……彼らは自分たちを照している光を、キリストの愛に輝いている働きを通して、他人に反射する。(各時代の希望上巻177〜179)


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