「手をさしのべることの永遠の報い」

 「宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」(ルカ14:13, 14)


 キリストの喜びに入るというのが、このお方の働き人たちの報いである。その喜びは、キリストご自身が熱烈な願いをもって先にのぞみ見ておられたものであり、このお方がご自分の天父になさった要求のうちに表されている。「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい」。
 御使たちはイエスが復活後に昇天なさるとき、このお方をお迎えしようと待機していた。天の万軍はもう一度、自分たちの愛する司令官が死の牢獄から自分たちのところへ戻ってこられるときに、歓迎したいと切望していた。彼らは、このお方が天の門を入られたとき、熱心にこのお方の周りに押し寄せた。しかしこのお方は彼らに下がるようにと手で合図をなさる。このお方の心は、ご自分がオリブ山に残して来られたさびしく悲しんでいる弟子たちの一団と共にあった。このお方の心は、なおもこの地上で苦闘している子供たち、まだ破壊者と戦うべき戦いがある者たちと共にある。このお方は、「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい」と仰せになる。
 キリストの贖われた者たちは、このお方の宝石である。このお方の尊い特別な宝である。「彼らは冠の玉のように」なる。――「聖徒たちのうちにあるこのお方の嗣業の栄光の富」。彼らのうちに、「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」。
そしてこのお方の働き人たちもまた、自分たちの働きの実を見るときに、喜ばないであろうか。……
 聖霊に動かされて、人びとを善と神とに導いたすべての行為は、天の書に記録される。そして、聖霊の働きのための器として自ら献身したすべての人は、神の日に自分の生涯が何をなしてきたかを見ることが許されるのである。
 一連の聖なる感化力がその尊い結果と共に明らかにされ、目の前に見るとはどんなにすばらしいことであろう。天の宮でわたしたちに会う魂が、自分たちの救いのために払われてきた同情と愛に満ちた関心を理解したときの感謝はいかほどであろう!わたしたちの贖いのためのすべての讃美、誉れ、そして栄光は神と小羊に与えられる。しかし、滅びるばかりであった魂の救いのために神がお用いになった器に感謝を表明することが神の栄光を損なうことはない。
 贖われた者たちは、自分たちの注意を掲げられた救い主に向けさせた人々と会い、その人を認める。彼らはこれらの魂と何と祝福に満ちた会話を交わすことであろう!「わたしは罪びとでした。……しかし、あなたがわたしのところに来てくださり、わたしの唯一の希望として、わたしの注意を尊い救い主へと引き寄せてくれたのです。そしてわたしはこのお方を信じました」と語られるであろう。……これらの贖われた人々が会い、自分のために重荷を負ってくれた人々に挨拶するとき、何という喜びがあることであろう!(レビュー・アンド・ヘラルド1905年1月5日)

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