説教 「あなたに足りないことが一つある。」


 マルコ10:17 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。

 ある時イエス様が道に出られると、一人の人が近づいてきました。
どのように近づいてきましたか?走ってきたのです。何か緊急な用事があったのでしょうか。
 
この人がイエス様をどのように呼びましたか?「よき師よ、」と呼びました。彼はイエス様に対して尊敬の気持ちを表すために「よき師」と言う言葉を使いまいした。しかし、イエス様の答は何でしたか?

マルコ10:18「イエスは言われた、『なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。』」

 「よき師」というのは、英語で言うならば、good masterでした。とても尊敬する人にだけ使う言葉です。しかし、イエスは聞かれました。なぜGOODを使うのか? 
そしてイエス様は言われました。「神一人のほかにGoodと呼べる方はいない。」
 なぜイエス様がこのような質問をされたのかというと、この青年がイエス様のことをどのように考えているのかを確かめるためでした。イエス様は言われました。「神一人のほかにGOODと呼べる方はいない。」この言葉を使ったあなたは私を神と認めるのかということです。はたして彼はイエスを神であると認めていたのでしょうか?

 この青年はなぜイエス様に話してみようと思ったのでしょうか?彼がイエス様に話しかける前にどのようなことを目撃したのかが書いてあります。

マルコ10:13 〜16「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。『それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。』そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」

 この青年は子供達にあらわされたイエス様の愛を目撃しました。イエス様が優しく子供達を抱き寄せ祝福されたのを見て、この青年もイエスに対する愛が心の中にわき起こりました。自分もイエスに祝福されたい、従いたいと思ったのでした。

 そして彼はイエスの後を急いで追いかけていって、足下にひざまずいていいました。「どのようにしたら永遠の命を得ることができるでしょうか?」

 現代多くの人々がこの質問を投げかけています。「どのようにしたら永遠の命を得ることができるでしょうか?」皆さんもこの疑問を持ったがために、教会に導かれるようになったのではないでしょうか?

昔中国を統一した秦の始皇帝は自分の得たいと思ったすべてのものを得ました。しかし、彼は自分の得た権力や富を見て考えました。これらのものを永遠に失いたくない。どうしたら死なずにいることができるだろうか?彼は永遠の命の妙薬を求めて、あらゆる国に家来を遣わしました。日本にも来たそうです。しかし、彼はそれを得ることができず、多くの宝物と共に死んでいきました。

 現代の多くの人々も同じです。アンチエーイジングといって、なるべく年をとらないように努力します。年ととって死んでいくのはわかっているのですが、なるべく若いままで、元気に長生きしようと努力します。化粧品も非常に高価な良いものを使います。食べ物も体に良いものを取り入れます。しかし、どうですか?皆さんどれくらい長生きしている人を見たことがありますか?140歳の人がいるというのを聞いたことがありますか?
 近年の世界最高齢者でも120歳か130歳くらいです。140歳とか150歳とかいう話はきいたことはありません。なぜたまに200歳くらい長生きする人が現れてこないのでしょうか?私たちの平均寿命はせいぜい80歳くらいです。

 私たちクリスチャンはどうでしょうか?私たちは永遠に生きる方法を本当に見つけているでしょうか?神は『たとえ死んでも生きる』と真のクリスチャン達にいわれました。その命を私たちは本当に持っているでしょうか?この青年のように「永遠の命を受けるにはどうしたらよいでしょうか?」という質問の答えを見つけたでしょうか?その答えは真実でしょうか?またそれを自分のものにしたでしょうか。真実を信じているのと、真実であると信じているのとは違います。実際は真実でないのに真実であるとむりやり信じ込んでいてもそれが真実に変化はしません。

ですからわたしたちは永遠の命を得るためにはどうすればよいのかを熱心に探し求めなければなりません。本当にそれを得たいとおもうのなら、本当にそれに価値を見出すのなら、牧師だけに頼っていてはいけません。自分で聖書を探さなければなりません。
なぜなら偽教師が多いからです。イエス様も警告されました。偽教師、偽の預言者に気をつけなさい。(マタイ7:15)彼らの特徴はなんですか?外見は羊のようである。しかしその中はオオカミである。どんなオオカミですか?強欲なオオカミである。

偽教師の特徴はは神の律法に服従させるように人々を導きません。わたしたちは聖書に判断基準を持っています。

イザヤ8:20(文語訳)「ただ律法と証詞(あかし)とを求むべし、彼らの言うところこのことばにかなわずば、しののめあらじ。」

 私たちの信じていることが真理かどうかによって私たちが実際に永遠の命を得るかどうかが決まります。いくら偽りを本気で信じたとしてもそれによって私たちは永遠の命を受けることはできません。ですから私たちは真理を真剣に探し求めなければなりません。神は地中に隠されている宝を探すように、熱心になって真理の宝を探しなさいと言われました。
 
 この青年もイエスの品性の美しさにひかれて、永遠の命をどのようにしたら得られるのかを知りたいと思いました。
 この青年は自分の義を高く評価していましたが、自分に何かが足りないと漠然と感じていました。ですから彼はイエス様に「永遠の命を受けるには何をしたらよいのでしょうか」と質問したのでした。その答えはこうでした。
 
マタイ19:17 「イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい。」

 イエス様の答は何でしたか?「なぜ良いことについてわたしにたずねるのか?」よい事について誰に尋ねるべきであるということですか?良い方です。「あなたは私を神と認めているのか?」という質問です。私たちも良い事は神に聞かなければなりません。神の言葉が書いてある聖書に聞かなければなりません。良いことを知っておられる方は答えられました。「永遠の命に入りたいのなら、戒めを守りなさい。」単純明快な答えでした。
 聖書の中には2種類の戒めがあります。それは十戒と呼ばれる道徳律と礼典律と呼ばれる律法です。道徳律は神ご自身の指で書かれた法律で永遠の義務として示されているものです。
出31:18 「主はシナイ山モーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。」
 そして礼典律は世の罪を取り除く神の小羊キリストの死という実体があらわれるまで、ヘブル人が行うべきものでした。これはモーセの手によって書かれたものでした。キリストを象徴していた小羊が人の罪の犠牲として、アダムとエバの時から捧げられてきました。しかし約2000年前、小羊の実体であられるイエスキリストが十字架にかかり死なれたことによってこの犠牲の制度、礼典律は廃止されたのでした。

 イエス様はこの青年に道徳律である十戒を守ることを永遠の命の条件としてあげられました。

マルコ10:19 「いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え。』」

これらの条項はすべて十戒に書かれています。ですから私たちもこの青年と同様十戒を守らなければ、永遠の命を得ることはできません。そして青年もそれを理解していました。そして何と答えましたか?

マルコ10:20「すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。

 これが彼の答えでした。彼は自分が小さいときからそれを守っていると主張しました。では、彼は永遠の命をもっていたのではないですか?しかし、イエス様の答はなんでしたか?

マルコ10:21 「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、『あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。』

エスはその青年にどのように言いましたか?乱暴に言いましたか?厳しい口調でいいましたか?彼の目を優しく見つめて愛情をこめて言われました。そして彼に足りないことがいくつあると言われましたか?一つです。2つや3つや4つでなくたった一つです。「あなたに足りないことが・・・一つある。」

 それは何ですか?
エス様は彼の足りない所は何であると言われたのでしたか?イエス様はあなたの足りない所は何であるとは答えられませんでした。

「ただあなたの財産を貧しい人に施しなさい」といわれたのでした。なぜこのようにイエス様は答えたのでしょうか?

キリストはこの青年の心を読まれました。彼には足りないことがただ一つだけありましたが、しかしそれは重大な原則でした。この一つの事が足りないがために永遠の命を受けられないのです。これは致命的なものでした。それが何でしたか?彼には何が足りなかったのですか?神の愛です。

神の律法は神の愛の原則を具体化したものです。なぜ偶像を拝んではいけませんか?神を愛するからです。なぜ父と母を敬わなければなりませんか?神の愛があるからです。なぜ安息日を守りますか?創造主である神を愛するからです。十戒の一つ一つは神と人への愛を具体化したものです。ですから神と人を心から愛する者にしかこの戒めに服従することができません。しかしこの青年にはこの神の愛が欠けていました。

彼は小さいころから十戒を守ってきたと思っていました。しかし、実際はそうではありませんでした。彼には致命的な欠陥があったのでした。この欠陥を補わなければ、彼は永遠の命を得ることができないのでした。

この青年が神の愛を受け入れるためには、彼はその欠陥に気が付き、直す必要がありました。それを自覚させるために、イエスは「あなたの財産を貧しい人に捧げなさい」と言われたのでした。

彼は自我に対する愛を取り除かなければなりませんでした。この自我に対する最高の愛が心を占領しているうちは、神の愛が心を占領することが不可能だったのです。

ですからキリストは彼を試されました。チャンスを与えたのでした。天の宝と地の宝のどちらに価値を置くかを試されたのでした。

マタイ10:34〜39 「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
 この聖句は何を私たちに教えていますか?
父と母を憎みなさいと教えていますか?神を第一として愛しなさいということです。これが第一の戒めです。

 マタイ16:24〜26「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。』」

現代多くのクリスチャンたちがキリストを愛し、キリストに従うと口では言います。しかし、キリストは言われました。もし私に従いたのならば、「自分の十字架を負うて私に従いなさい」と言われました。なぜ自分の十字架を負わなければならないのですか?これは自分を捨てなさいという意味ですが、自分を捨てなさいということはどういうことですか?自我に対する愛を放棄しなさいということです。

「イエスは、いま弟子たちに、ご自分の犠牲の生活が彼らの生活のあるべき姿の模範であることを説明された。イエスは、立ち去らないで近くにいた人々を、弟子たちといっしょにそばにお呼びになって、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われた (マタイ 16:2 4 )。十字架はローマの権力と関連していた。それは最も残酷で屈辱的な形の死の道具であった。最も下等な犯罪人は処刑場まで十字架をかついで行かねばならなかった。十字架を彼らの肩にのせようとすると、彼らはしばしば必死の力で抵抗するが、ついには負けてしまって、この責め道具が彼らにくくりつけられるのであった。しかしイエスは、従う者たちに、十字架を取りあげてわたしのあとからそれをかついでくるようにとお命じになった。弟子たちにはイエスのそのみことばがぼんやりしかわからなかったが、それは最もひどい屈辱に身をまかせること、すなわちキリストのために死にいたるまで従うことを彼らにさし示した。」―DA45章p186
 現代多くのクリスチャンたちが間違った教えを信じ、そこで満足しようと自分の心をごまかしています。しかし真の宗教とはなんですか?人を偶像としないものです。真の神であられる創造主を礼拝するのが真の宗教です。神は「ただ律法と証とに求めなさい」と言われました。律法が何ですか、十戒です。証が何ですか?御言葉です。これが唯一の安全な判断基準です。これに合っていなければ何と書いてありますか?「夜明けがない。」夜明けがないとどうなりますか?霊的暗黒のままでいるということです。

主は狭い門から入りなさいと言われました。狭い門はどこにありますか?人間の教えや言い伝えではなく、神の御言葉、神の律法に従うところが狭い門です。

 キリストはこの青年を心から愛して、目に見えない宝のためにこの世の宝を捨てなさいと言われました。しかし、彼は何を選びましたか?

 マルコ10:22 「すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」

 キリストは彼に選択肢を与えられました。一つは狭い門で、そこを通ると自我を捨て去り、苦しみを経験しますがその果てには永遠の命があります。彼らは天の真珠の門を通ることができます。そしてもう一つは広い門ですが、そこを通ると自我を満足させ、この世の快楽を得ることができますが、そこには真の満足がなく行き着く場所は破滅です。

 イエス様は「あなたの仕える者を今日、選びなさい」と言われます。何を選びかはあなたにかかっています。キリストは強制なさいません。イエスのもとを立ち去ろうとする者を無理やりとどまらせることはしません。

 この青年は残念なことに悲しみながらイエスの下を去って行きました。現代多くの人々が永遠の命を得る為に自分が捨て去らなければならないことがあるのを知って、落胆してイエスの下を去っていきます。狭い門を離れてしまいます。そして広い門に入りその広い門の先に永遠の命があるかのように無理やり信じ込むのです。しかしいくら熱心に信じ込んだとしても、永遠の命がその先にありますか?神は「求めよ、そうすれば与えられであろう」と約束されましたが、「偽りを信じなさい、そうすれば永遠の命が与えられであろう」とは約束されなかったのでした。ですから私たちは何が真理であり偽りであるかを、自分自身、神の助けによって、そして聖書を基準として探し出さなければなりません。
 
私たちが真理を探り、また真理を教える教会を見出して、その真理に服従するのなら天の宝は保障されます。

神は教会を通して、またその使命者を通しても働かれます。しかし、わたしたちは彼らの教えを自分自身で確認してみなければなりません。そしてもし彼らの言葉が神の御言葉と聖書の原則に一致していないのならば、彼らには光がないということを認めなければなりません。

この青年の心には神の愛が入る余裕がありませんでした。彼は自我に対する愛を完全に捨て去らなければなりませんでした。

 彼は小さいときから律法を守ってきたと言いましたが、それは真実ではないということが証明されました。彼は物をお与えになった神よりも神が与えてくださった物を愛したのでした。

 アダムもそうでした。エバが罪を犯したとき、エバを創造してくださった神よりもエバを愛したので、彼は禁断の木の実を食べてこの世に罪を入れたのでした。もし彼がエバよりもエバを創造された神を愛したのなら、罪はこの世に入ることはなかったのです。神はエバの代わりにもっと素晴らしい伴侶を彼に与えられたことでしょう。

 しかしアブラハムは違いました。彼はイサクを捧げた時、イサクよりもイサクを与えて下さった神を愛し、その命令を守ったのでした。だから神は彼を祝福されたのでした。私たちにはこのアブラハムの信仰が私たちにも必要です。
 
 最後に一つの証を読んで終わりましょう。

 「この若者に対するキリストの態度は、1つの実物教訓として示されている。神は、神のしもべの1人1人が従わねばならない行為の法則をわれわれにお与えになった。それは、神の律法への服従であるが、ただ義務的に従うことではなくて、生命へいたる服従であって、品性にあらわされる。神は、神の国の民になりたいと望むすべての人のために、品性についての神ご自身の標準をおたてになった。キリストの共労者となる者、「主よ、わたしの持っているもののすべて、わたしの全人格はあなたのものです」と言う者だけが、神の息子娘としてみとめられる。天国を望みながら、しかも定められた条件をみて離れ去ることがどういうことになるかを、人はみな考えてみなければならない。キリストに、「いやです」 と言うことが、何を意味するかを考えなさい。この役人は、「いや、わたしはあなたに全部をさしあげられません」と言った。われわれはこれと同じことを言うだろうか。救い主は、神がわれわれになすようにお与えになった働きをいっしょにしてあげようと申し出ておられる。・・・」DA中p332
私たちの服従は命にいたる服従でしょうか?私たちは何を考えてみなければなりませんか?「天国を望みながら、しかも定められた条件をみて離れ去ることがどういうことになるかを、」「キリストに、「いやです」 と言うことが、何を意味するかを」考えてみなければなりません。

私たちは永遠の命に真の価値を認めているでしょうか?イエス・キリストはこれを私たちに与えるために生命をお捧げになられたのです。

 イエス様はあなたにも「足りないことが一つある。」と語られていないでしょうか?この一つのことによって私たちは永遠の命を捨てるかもしれません。
たった一つの事がわたしたちを永遠の命に相応しくない者にするかもしれないのです。

 キリストはあなたにも「あなたの仕える者を今日選びなさい」(ヨシュア24:15)と言われます。私たちは天の神に仕えるでしょうか。それともこの世の神に仕えるでしょうか?

 キリストは愛にあふれるまなざしで、わたしたちが永遠の命にいたる道を選ぶことを待っておられます。キリストは言われました。 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)

 私たちすべての者が神の愛に応え、すべてを捨てて、キリストの胸の中に飛び込んでいく魂となりますように心からお祈りいたします。