「パウロの勝利に満ちた証」

 「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」(テモテ第二4:7, 8)

 この信仰の人は、天と地をつなぎ、また有限な人間を無限の神につないで下さったキリストを表わす、ヤコブの幻のはしごを見上げる。自分を支え慰めて下さるおかた、そして、自分がいのちをささげようとしているそのおかたを、父祖たちや預言者たちがどんなに深く信頼していたかを思い起こして、彼の信仰は強められる。各時代にわたって信仰のあかしを立ててきたこれらの聖徒たちから、パウロは、神が真実であられるという保証を聞く。パウロの仲間の使徒たちは、キリストの福音を宣べ伝えに出て行き、宗教的偏狭さや異教の迷信、迫害、軽蔑に会ったが、不信心の暗い迷路の真っただ中に、十字架の光を高く掲げることができれば、自分たちのいのちは惜しいとは思わなかった。これらの人々が、イエスを神のみ子、世の救い主としてあかししているのを、パウロは聞く。拷問台や火あぶりの柱、土牢から、地のほら穴から、殉教者の勝利の叫びがパウロの耳に聞こえてくる。彼は、忠実な人々が、たとえ欠乏しても、悩まされ苦しめられても、なお恐れなく厳粛に信仰をあかしし、「わたしは自分の信じてきたかたを知って」いると言うのを聞く。信仰のために自分のいのちをささげる人々は、自分たちの信じてきたおかたこそ完全に救うことができるのであると、世に向かって宣言しているのである。
 キリストの犠牲によってあがなわれ、その血によって罪からきよめられ、その義を着せられて、パウロは、自分の魂はあがない主の御目に尊いものだというあかしを持っている。彼の生命はキリストと共に神のうちに隠され、彼は、死を征服されたかたはご自分にゆだねられたものを守ることがおできになると確信している。彼の心は、「わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」という救い主の約束をつかんでいる(ヨハネ6:40)。彼の思いと望みは、主の再臨に集中している。そして、執行人の剣がふり下ろされて、死の影が殉教者のまわりを取り巻くとき、わき上がる最後の思いは、大いなるよみがえりのときの最初の思いと同じく、いのちを与えて下さるおかたにお会いし、そのかたが、祝福された者の喜びに自分を入れて下さるということである。……
 彼の声はラッパのひびきのようにその後の各時代に鳴りわたり、彼の勇気はキリストの幾千の証人を奮い立たせ、悲しみに沈んだ幾千の人々の心に、彼自身の勝利の喜びを反響させている。「……わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……それを授けて下さるであろう。」(テモテ第二4:6~8)。(患難から栄光へ下巻210, 211)

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