第一篇第2章「永遠の福音を経験せよ」


「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め。』」―黙示録14:6,7

 

全ての国民、部族、国語、民族に
宣べ伝えなければならない使命


この題目を選択した理由は中空を飛ぶ第一天使は「あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音」をたずさえているからである。
世には数多くの国々が存在している。日本のように単一民族の国があるかとおもえば、多民族で構成されている国もある。彼らは一つの国を構成しながら独特の言語と生活習慣を持ち、それぞれの民族が互いに異なった生活様式をもっている。特にアフリカには国としての概念よりも、部族と国語を中心として生活している多くの原住民がいる。
であるから空中を飛ぶ第一天使の使命は国々にだけ、あるいは部族にだけ伝えられてはならない。すべての国、部族、民族、国語に伝えられなければならない使命である。なぜなら、第一天使の使命はあまりにも重要な使命だからである。

福音

「…それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」―ローマ1:16,17
福音にはそれを信じる者を救いに至らせる力がある。パウロは福音には神の義があると言っている。福音とは何であろうか?一番聖書的な答えは「福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである」(ローマ1:2,3)。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。…」すなわち神の一人子イエス・キリストこそがわたしたちの福音なのである。
なぜ神の一人子イエス・キリストがわたしたちの福音になるのだろうか?その理由をわたしたちは聖書に見い出すことができる。イエス・キリストはわたしたちに救いをもたらす方である。
「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」―使徒行伝2:21
「男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」―マタイ1:21
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」―マルコ2:17
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。…」―テモテ第一1:15
エスは義人ではなく罪人を救うためにこの世に来られた。それだからこのお方はこの世の福音になられるのである。

罪人は救いを得る資格がある

2000年前ベツレヘムに誕生されたメシヤは人類全ての
福音であり、私たちの救いである。なぜならそのお方は罪人を救うために来られたからである。罪によって永遠に死ぬしかなかった人類にこれ以上の嬉しいニュースがどこにあるのであろうか?
聖書では全人類が罪人であることを宣言している。このみ言葉は人々を罪に定めるものではなく、すべての人類に救いをもたらそうとする神の憐れみである。
「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、『義人はいない、ひとりもいない。』」―ローマ3:9,10
パウロは無知な異邦人はもちろん、自らを賢いと自任するギリシヤ人やローマ人が神から離れ去った愚かな罪人であると言っている。
再臨信徒であるわたしたちはどうであろうか?私たちは優れた者だろうか?兄弟姉妹たちよ、罪人であることを恐れないようにしよう。なぜなら罪人にこそ救いを得る資格が与えられているからである。であるから私たちが罪人であるということを悟る事は真の祝福である。イエス・キリストは罪人を救うためにこの世に来られた。・・・では私たちは罪人になるために罪を犯すのだろうか?「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」(ローマ6:1,2)。
このような真理は使徒パウロが教える真理であり聖書の教えである。それで彼は次のように叫んだのである。「次のように書いてある、『義人はいない、ひとりもいない。』」人は罪人になることを恐れるが、この御言葉にはすべての人に救いを与えようとする神の愛と憐れみが含まれているのである。罪人に救いの資格を与えてくださった神に感謝しよう。

永遠の福音

約2000年前に乳飲み子としてお生まれになったキリストは福音であられたが、これから全宇宙の王として再臨されるキリストも永遠の福音であられる。中空を飛ぶ第一天使は永遠の福音をたずさえてきた。「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、」(黙示録14:6)。
しかし永遠の福音であられる再臨なさるイエスは罪とは関係なく、ご自身を待ち望む者たちを救うために来られるのである。「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブル9:28)。
罪とは関係なく、御自分を待ち望む者たちを救うために再び来られるという永遠の福音が全地に伝えられなければならない。それだから第一天使は永遠の福音をたずさえて中空を飛んでいるのである。全地の国と部族と民族と国語に伝えられなければならない福音は永遠の福音なのである。永遠の福音を受け入れる者たちは永遠の救いを受けるであろう。
永遠の福音は自分が罪人であるということを悟り、告白して悔い改める者たちを、罪とは関係のない者に造り変えるのである。永遠の福音は信じる者たちに世に勝つ能力を与えるのである。永遠の福音はわたしたちに罪を犯さない生涯を約束しているのである。
「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」―第一ヨハネ5:4,5
「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」―ローマ8:37

永遠の福音を経験せよ

1844年3月22日にキリストが再臨されるというメッセージは真にキリストを愛する者たちにとって永遠の福音であった。そしてこの永遠の福音を信じる者たちに驚くべき経験がもたらされた。この経験こそ永遠の福音を信じるすべての再臨聖徒たちが必ず経験しなければならないものである。1844年当時の再臨聖徒たちの経験はどのようなものであったのだろうか?預言者はその時の経験を次のように記録している。
「彼らの感動的な訴えは、一般の説教壇から聞かれる平和と無事の保証とは著しく異なっていた。そして、使命が伝えられたところではどこでも、人々の心を動かした。 聖書からの単純で直接的な証言が、聖霊の力によって心に印象づけられたときに、その強い確信を拒みきれるものはなかった。信仰を表明していた者たちも、自分たちが危険を知らずに安心していたことに気づいた。彼らは、自分たちの背教、世俗、不信、誇り、利己心に気づいた。多くの者が悔い改めて、謙そんに主を求めた。長い間地上の事物に執着していた愛情が、今や天に向けられた。神の霊が彼らの上に宿った。そして彼らの心は和らげられ、静められて、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである』という叫びに参加した。
罪人は、泣いて、『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』とたずねた。不正直であった者は、なんとかして賠償しようとした。キリストのうちに平和を見いだした者はみな、その祝福を人々に分かちたいと願った。親の心は子に向けられ、子の心は親に向けられた。誇りと疎遠の壁は払いのけられた。心からの告白がなされ、家族の者たちは、最も近く最も愛する者の救いのために働いた。熱心なとりなしの祈りの声が、しばしば聞かれた 。どこでも、苦悩にあえぐ魂が、神に嘆願していた。自分自身の罪の許しの確証を得るために、あるいは親族や隣人の改心のために、一晩じゅう熱心に祈る者も多かった。」―各時代の大争闘下巻p.66,67
「使命を信じた人々は、言うに言われぬ希望に満たされて、救い主の来られるのを待った。彼らが主に会うことを予期した時は切迫した。彼らは、冷静な厳粛さをもってこの時を待った。彼らは、神との親しい交わりの中で安んじていた。これは、輝かしい来世において与えられる平和の先ぶれであった。この希望と信頼を経験したものは、あの待望の貴重な時のことを忘れることはできない。…まじめな信者たちは、あたかも死の床にあって、あと数時間で地上に別れを告げるかのように、心の思いと感情を注意深く吟味した。…今でも神の民と称する人々の間に、これと同じ自分を吟味する精神、同じ熱誠と断固とした信仰がほしいものである。」―各時代の大争闘下巻p.72
現代この世には罪に対する嫌悪感と憎悪心がないために、悔い改めと聖潔の要求の欠けている福音が人気を得ている。このような福音がまるで永遠の福音であるかのように伝えられている。そしてこの福音は真の心の痛恨と告白なしに救いの喜びだけが与えられることが可能であるかのように教えている。
「1843年に叫ばれた時についての宣言には、神が共におられたことを、わたしは見た。…そのメッセージは、どこであっても、人々の心を動かした。人は悔い改め、涙を流して、罪の許しを祈り求めた。そして、不正直な生活を送っていた人々は、なんとかして償いをしようとした。親たちは、子供たちのことを深く憂えた。メッセージを信じた人々は、まだ悔い改めていない友人や親せきのために働き、その厳粛な使命の重要性を心に強く感じて、人の子の来臨に備えるように警告し訴えた。」―初代文集p.383,384
 永遠の福音が伝えられる所はどこであっても、罪人たちの心が動かされ、永遠の福音が罪人たちの心の中に深い悔い改めを呼び起こしたのである。永遠の福音の力は悔い改めと告白として現われたのである。
再臨を待ち望みつつ日々生きている再臨信徒の皆様、あなたが信じている福音の力はどのようなものであろうか?わたしたちの心の中に悔い改めてない罪が思い出されることはないであろうか?心の奥底から湧き出る真の悔い改めと告白の経験、そして罪に対する嫌悪と憎悪心をどれくらい持っているであろうか?
「よろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」のは自分の心であることを悟り、心の聖潔と純潔を求め、神と和解しようとする真の望みが私たちの心の中に存在しているであろうか?もしそうでないならば、私たちは永遠の福音である第一天使の使命を経験した者ではない。
今日この世には罪に対する嫌悪と憎悪、悔い改めと心の聖潔と純潔に欠乏している福音が広がっている。真の心の悔い改めと告白なしに救いの喜びのみを与えようとする福音は永遠の福音ではない。このような福音は真の自由を与えず、また心に平安を与えることのできない福音である。罪ある心には決して真の平安が宿ることはないからである。
「主は言われた、『悪い者には平安がない』と。」―イザヤ48:22
「彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている。」―エレミヤ6:14
ラオデキア教会の使者は「だから、熱心になって悔い改めなさい」(黙示録3:19)と勧告しているのである。永遠の福音をたずさえた第一天使は今も中空を飛びながら私たちに熱心に悔い改めなさいと叫んでいる。

確実な証

「その罪を隠す者は栄えることがない」(箴言28:13)。このような人は福音の力と目的を知らない。福音は自分が罪人であるということを悟らず、罪に固執する人には何の力もないのである。しかし自分が罪人であるということを悟り、告白する人にとっては救いを与える神の力を示すのである。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」―第二テモテ1:15
「自分の罪を認めて神の前にへりくだらない者は、神に受け入れられる最初の条件さえ果していないわけであります。」―キリストへの道p.44
「しかし、わたしたちが罪をゆるされ、平和を与えられるためには自分を知らなければならない。つまり、わたしたちを悔い改めに至らせる知識がなければならない。…キリストは罪人であることを自覚した人だけをお救いになれるのである。彼は、『囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ』るために来られたのである(ルカ4:18)。しかし、『健康な人には医者はいらない』(ルカ5:31)。わたしたちは、自分たちの真の状態を知らなければならない。そうでなければ、キリストの助けが必要なことを感じないことであろう。わたしたちは、自分たちの危険について知らなければならない。そうでなければ、避難所にのがれることもないことであろう。わたしたちは自分たちの傷の痛みを感じなければならない。そうでないと、いやしを求めないことであろう。」―キリストの実物教訓p.137,138
「キリストは信仰によって彼に来る一番ひどい罪人までも救うことがおできである。もし彼らが神にそうされるように許しさえすれば、彼らの全ての汚れから彼らを清めることがおできである。しかし彼らが罪のまま留まるのなら救われる可能性はないのである。キリストの義は悔い改めていないどのような罪も覆うことはない。」―7BC,p.931
「わたしたちは罪の言いわけをして、自分の罪を軽くしようとしてはならない。わたしたちは、罪についての神の評価を受け入れなければならない。それは実に重いものである。カルバリーのみが、罪のいかにおそるべきものかを明らかにする。もしわたしたちが、自分の罪を負わなければならないのであれば、それはわたしたちを、打ち砕くことであろう。しかし、罪なき方がわたしたちに代わってくださった。不義を受けるべき方ではないのに、主はわたしたちの不義を負われた。『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』(Ⅰヨハネ1:9 )。なんと輝かしい真理であろう。神はご自身の律法に対して義でありながら、なおイエスを信じるすべての者を義とされるお方なのである。『だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために、とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず』(ミカ7:18)。」―祝福の山p.145,146

罪を覆ってくれない

「ある人々は、つねに、天の真珠を求めているように見えるけれども、彼らは、自分たちの悪習慣を全く放棄していない。彼らは、キリストが彼らの中に生きてくださるために、自己に死ぬことをしない。彼らが高価な真珠を見出すことができないのは、そのためである。彼らは、まだ、汚れた野心や世の快楽を愛する心に勝利していない。彼らは、キリストにならって十字架をとって、克己と犠牲の道を歩かない。九分通りクリスチャンではあるが、完全なクリスチャンになっていない。天国に近いようではあるが、天国に入ることはできない。完全ではなくて、九分通り救われていることは、九分通り失われていることではなくて、完全に失われていることである。」−キリストの実物教訓p9
「私たちすべてが罪と律法を犯す行為を離れて天の神の人民になることは私たちの特権である。私たちはキリストの義を着ることができるが、彼の義は少しの悪をも覆ってくれないであろう。『あなたを洗い清める』ユダとエルサレムのために開かれた泉があり、全ての汚れをそこで清めることができる。」―レビュー・アンド・ヘラルド1889年7月29日

罪ある状態では救われない

「イエスは我々を罪の中で救われるのではなく罪から救われる。罪とは律法を犯すことであるから、私たちが律法を守らないならば救い主を受け入れないということなのである。私たちの唯一の救いの希望はキリストである。その方の霊が心の中に住まわれるのなら、罪は心に留まることができないのである。」―レビュー・アンド・ヘラルド1883年3月16日
「キリストは、悔い改めた魂を、いつでも罪から引き離される。主は、悪魔のわざを滅ぼすためにおいでになったのであって、すべての悔い改めた魂に聖霊を与え、罪を犯さないように道を備えられた。」―各時代の希望中巻p.20
「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、
悪しき者が手を触れるようなことはない。また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。」―第一ヨハネ5:18〜21
「イエスは人を救われるが罪あるままで救われるのではなく、罪から救われるために死なれたのである。人はイエス・キリストの模範に従って自分の十字架を負ってその方に従い、自己を否定し、どのような代価を払ってでも神に従いながら自分の道にある過ちを捨てなければならない。」―教会への証4巻p.251
「一つの悪い行為が生活のうちに保留されていたら、生活全体がけがされる。その人は不義の器となる。」―各時代の希望中巻p.23

約束

「救い主は自ら人間の弱さを受け、罪のない生涯を送られた
が、それは、人性の弱さのために、勝利することができないと人間が恐れるようなことがないためであった。キリストはわたしたちが、『神の性質にあずかる者』となるために、地上においでになった。そして、人性が神性と結合する時、罪を犯さないということをその生涯は物語っている。」―ミニストリー・オブ・ヒーリングp.124
「自分の汚れた服を脱がなければならない罪人はイエス・キリストの中でのみ望みがある。なぜなら彼は義の礼服を着せてくださるためにそれを準備された方だからである。…純潔で聖なる衣は天の門を通った後では誰にも着せられないであろう。天国に入る者はキリストの義の衣を着、額に神のみ名が書かれていなければならない。この名は使徒が幻を通して見た象徴であり神の戒めに対して知的に服従することを示す。…品性の欠陥である罪や過ちを隠すことができる物は何もない。着物は少しだけ洗うのではなく、染みですらあってはならないのである。」―青年指導者1886年8月18日
「天の織機で織られたこの衣には、人間の創意による糸は一本も含まれていない。キリストは人性をおとりになって、完全な品性を形成された。そしてこの品性をわたしたちに分け与えてくださるのである。『われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである』(イザヤ64:6)。わたしたちが自分でなし得ることは、罪で汚れている。しかし神のみ子は『罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない』(Ⅰヨハネ3:5 )。罪は『律法を犯すこと』であると定義されている(Ⅰヨハネ3:4英語欽定訳)。だがキリストは、律法のあらゆる要求に従順であられた。主はご自分について、『わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』と言われた(詩篇40:8)。主はまた、この地上におられた時、弟子たちに向かって、『わたし(は)わたしの父のいましめを守った』と言われた(ヨハネ15:10)。キリストはその全き従順によって、あらゆる人間が神の戒めに従うことができるようになさった。人が自分自身の心をキリストにささげる時、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストの命を生きる。これが、キリストの義の衣を着ることである。…
義とは正しい行いである。そしてすべての者は、各自の行為によってさばかれる。わたしたちの品性は、わたしたちの行いに現れる。行いは信仰が本物であるかどうかを示す。…『神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。』『もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである』(Ⅰヨハネ3:24,2:3)。これが回心のほんとうの証拠である。わたしたちが口で何を言おうとも、キリストが義の行為となってあらわされるのでなければ、それは無にひとしい。」―キリストの実物教訓p.291〜293

第一天使は飛んでいる

永遠の福音をたずさえた第一天使は今も中空を飛んでいる。「彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」と第一天使は大声で叫んでいる。
再臨信徒たちよ!私たちは皆、近いうちに「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」(黙示録22:11)という宣告を聞くようになる。わたしたちはその宣告が出たときに義なる者になろうとしてはならない。その時に義なる者になっていなければならないのである。その時に義で聖なる者に永遠の救いが与えられるのである。永遠の福音が今私たちに罪のない生涯を与えてくれないならば、どのように「義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」と宣告されることが可能であろうか?
わたしたちの心に感動が起きないであろうか。永遠の福音には信じる者を聖なる者にする力があるということを覚えよう。永遠の福音は罪のない生涯が可能であるということを宣言している。このような福音でないものは第一天使が伝えようとする永遠の福音ではない。このような信仰を持った者に主は彼らの信仰が実現されるようにされる。「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、」(ヘブル11:1)これが永遠の福音であり真の信仰による義の使命である。
これが1844年当時永遠の福音を待っていた全ての再臨信徒たちの経験であり、第一天使の経験であった。この経験は今日永遠の福音を待つ私たちが必ず経験しなければならない使命なのである。

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