第3編 第5章 「芽の出たアロンのつえ」の経験をせよ


 「『わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう。』モーセが、このようにイスラエルの人々に語ったので、つかさたちはみな、その父祖の家にしたがって、おのおの、つえ一本ずつを彼に渡した。そのつえは合わせて十二本。アロンのつえも、そのつえのうちにあった。モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。」―民数紀17:5-8
 
歴史の実体

第三天使の経験の中、「芽の出たアロンのつえ」からも我々は教訓を学ばなければならない。本章ではこの「芽の出たアロンのつえ」について学んでいきたいと思う。
芽の出たアロンのつえの背景にはイスラエルの民の悲しい歴史が記録されている。神権政治の期間、イスラエルの民の間に二回の大きな反逆があった。それは「カデシの反逆」と、「コラとダタン、アビラムの反逆」である。この二回の反逆は現代の私たちにとって霊的に重要な意味がある事件であり、研究する価値がある。
荒野におけるイスラエル民族の歴史は現代の霊的イスラエルの歴史を前もって示されたものであり、またイスラエルの荒野の教会の歴史は最後の七番目の教会の鏡でもある。
「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。」―コリント第一10:11
カデシの反逆はヨシュアとカレブという二人の斥候によって送られた神のメッセージを拒否した事件であり、真理に対する反逆であった。そしてコラとダタンとアビラムによって計画された反逆は、神が自ら立てられた僕に謀反することによって神の権威と政府に対抗した行政的な反逆であった。
これはモーセとアロンのいとこであるコラによって計画され、イスラエルの長子であるルベンの部族の族長であるダタンとアビラムの全面的な支持によって行われた、計画的、故意的な反逆であった。
モーセとアロンと同じレビ族であり、彼らのいとこであったコラは、神の命令と指示によってアロンの息子たちに祭司の職が与えられたのに、自分には与えられなかったことに対して怒った。彼はモーセとアロンが特権を独り占めにしていると常に考え、憎しみと嫉妬、不平と不満の精神を持っていたが、ついにこの時反逆するに到ったのである。
そしてヤコブの長子ルベンの子孫であるアビラムとダタンがコラと一致した。当時の習慣では長子はほかの息子たちと違って親から二倍の財産と共に祭司の職が与えられた。であるからヤコブの長子であったルベンの部族は祭司の職を得られるのが当然であったのだが、神はアロンと彼の子孫にだけ祭司の職を与えられたのである。それで清められていない本性を持っていた彼らはこのことによってサタンによって扇動され、コラの反逆に協力したのである。彼らはモーセとアロンが自分たちの権利を横取りしたと考えたのである。
血統によって長子に多くの特権を与える制度は明らかに当時の秩序であった。しかし神は御自分の僕を選ばれることにおいて血統も重要であるが、それよりも優先させることがあるということを示されたのである。血統よりも優先させることとは、忠誠心と真実性、そして誠実さであった。これによって神の御働きに奉仕することのできる特権が与えられたのである。
ルベンは長子であったが湧き出る水のような性格であり、忠誠心がなく、長子の特権を失った。一方レビはとても乱暴な性格であったが信仰によってそのような性格を克服し、荒野で金の子牛を拝む兄弟たちからの死の脅しをもいとわないで神に忠誠することで、長子の特権であった祭司職と聖所で奉仕する職を得るようになったのである。それだから忠誠心と真実性は血統よりも神が尊ばれ、優先されるものなのである。
それでもコラとダタンとアビラムは失われた特権を反逆的な方法で取り戻そうとした。しかし、結果的に数多くの魂を死に導く災いをもたらしただけであった。このようなイスラエルの歴史は今日世の終わりに生きる私たちにとって大きな鏡となるべきものであり、当然教訓を得なければならないものなのである。

アロンのつえは至聖所の中に保管された

神御自らがこの反逆の勢力を清算された後、この事件を通して当時の人々だけでなく、世の終わりに生きる私たちに大きな教訓を与えられたのであった。
神はイスラエルの十二の族長たちにそれぞれのつえを持ってくるように指示され、そのつえを至聖所の中の契約の箱の前に一日の間おくように命令された。
モーセが次の日至聖所に入ったとき、レビ部族を代表したアロンのつえからは、芽がふき、つぼみが出て、花が咲いて、実が結んでいた。このことによってイスラエルの民、神から選ばれた者が誰であり、また神は血統よりも優先される原則があるということを悟らせるようにされた。モーセとアロンは神に対する忠誠心と柔和で謙遜な品性によって神によって選ばれ、祭司の職を得るようになったのである。
モーセは、後に語られるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、」―ヘブル3:5
モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。」―民数紀12:3
反逆は止み、この事件は具体的に記録されて世の終わりの民に大切な教訓として与えられるようになった。
神は一晩の間に芽がふき、つぼみが出て、花が咲いて、実が結んだアロンのつえを至聖所に保管するように命じられた。
「主はモーセに言われた、『アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どものために、しるしとしなさい。こうして、彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない。』」―民数紀17:10

芽の出たアロンのつえが保管される

コラとダタンとアビラムは神が指導者として任命されたモーセとアロンの権威に反逆を起こすことで自ら指導者になろうと試み、神の権威を無視した。この事件は世の終わりに生きる私たちにもう一つの重要な教訓を与えている。
アロンのつえから芽が出た事件を通してイスラエルの真の指導者はだれであり、神の国と行政は血統や数によって決定されるのではなく、ただ忠誠心と美しい品性の実によって決定されるということを明示した。
この事件の後、アロンのつえは将来のために至聖所に保管された。しかしその後、このつえが使われたことはなかった。そしていつのまにかマナのつぼと共に契約の箱の中に保管されたはずの芽の出たアロンのつえは見失われた。イスラエルの民がそれらをおろそかにし、保管に失敗したからであった。契約の箱に大切に保管されていなければならなかった芽の出たアロンのつえは、ソロモンの時代にはマナのつぼと共に紛失してしまったのであった。
「箱の内には二枚の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエジプトから出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれ、モーセがホレブでそれを納めたものである。」―列王記上8:9(歴代史下5:10参照)
このように真の指導者を選ぶ試金石となり、歴史の教訓を忘れないようにするために保管されたつえを失ったことは、イスラエルの民に神の統治方法と真のイスラエルの指導者はどのような人であるべきかという原則を失ったことを意味している。
イスラエル出エジプト以後、荒野ではもちろんカナンに入った後にも神が士師を立てられ、間接的ではあったが、神御自らが統治された神権政治であった。しかしイスラエルはこの制度を嫌い、王を立てて自らを統治するように要求したという歴史を我々は知っている。王を立てて国を統治するという異邦の国の真似をすることをイスラエルの民は求めたのである。
「『今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください。』しかし彼らが、『われわれをさばく王を、われわれに与えよ』と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、『民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。」―サムエル上8:5-7
このようなイスラエルの歴史から教訓を学び、この世の終わりを生きる霊的イスラエルの民が世の真似をしていないかを考えてみなければならない。
将来のために芽の出たアロンのつえを至聖所の中に保管したのだったが、イスラエルの歴史上、モーセの時代以後一度もこのつえを使ったという事実はない。結果的にイスラエルの民によっておろそかに扱われ、失われたこのつえが、至聖所の時代である現代、天の至聖所の契約の箱の中から発見されるのである。
もし、これが事実であるなら、神が芽の出たアロンのつえを至聖所の契約の箱の中に保管するように命じられたその御目的は当時のイスラエルの民に対してよりも、世の終わりに住む現代の民のためなのではないだろうか?
「イエスは箱のそばに立っておられた。そして、聖徒たちの祈りが彼の所にのぼってくると、香炉の中の香が煙って、彼は香の煙とともに彼らの祈りを彼の父にささげられるのであった。箱の中には、マナの入った黄金のつぼと、芽が出たアロンの杖と、書物のようにたたまれた石の板とがあった。イエスはそれを開かれた。そしてわたしは、そこに神の指で書かれた十誡を見た。」―初代文集p.91,92

現代に必要な芽の出たアロンのつえ

芽の出たアロンのつえは今日大贖罪の日を生きていく民に必要なものであり、契約の箱のように重要なものとして扱われなければならない真理が含まれている。このつえが保管された目的を証の書には次のように書いてある。
「その翌日、見よ、『レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた』(同・17:8)。そのつえは、人々に見せたあとで、後世への証拠として、幕屋の中に保存された。この奇跡は、祭司職に関する問題を難なく解決した。」―人類のあけぼの上巻p.487
芽の出たアロンのつえはだれが神の認められる真の僕であり、どの部族が神の選ばれた部族であるかを決定したものであり、個人と団体をテストする試金石として与えられたものである。
芽の出たアロンのつえの答えは、血統とか民主的多数決による秩序によるものでもなかった。個人的には清めの実を結ばせる人だけが神の真の僕となることができ、団体的には忠誠のテストを通して、清い真理を所有する清められた民が神に選ばれるということを意味するのである。
愛する再臨信徒たちよ!今日第三天使の使命を受け入れた霊的イスラエルの民の中でどのような人が神の真の指導者であるかを識別する必要があると思わないであろうか?なぜなら、今日教会は、徹底した形式と学歴主義、理論的な知識を重視する制度によって指導者を選出しているが、果たしてこの方法が正しい方法であり、神の立てられた原則であるのかということを調べてみなければならない。
学歴と資格制度によって指導者を選ぶ形式主義はバビロンから由来したものであるという事実は知る人ぞ知る事実である。果たしてこのようなバビロンの原則と方法が聖書的なものかは研究してみなければならない。
徹底的な理論と知識中心の学歴制度は決して正しい霊的指導者を選ぶ原則とはなりえない。互いに比べられて勝たなければならない実力重視、競争主義の制度によっては柔和で謙遜な品性を所有すべき霊的な指導者を選ぶことはできないであろう。なぜならば実力主義と学歴及び資格制度によって祭司たちが選ばれたとしたら、悪い本性を持っている人間は自分も知らない間に高慢のわなに陥るようになるからである。これらはサタンの知恵によって考案されたバビロンからきた制度である。
形式と知識中心の教育制度によって高ぶっていた古代イスラエルと現代の霊的イスラエルの教育制度は酷似しているのではないだろうか。ユダヤ人たちは当時の最新施設と知識中心の学歴制度によって人間の知識を誇る中、メシヤを見分けることができず、ついには彼を十字架に釘付けて殺したという歴史を持っている。
現代のセブンスデー・アドベンチスト教会は他の教会よりも学歴を重視する。学生を競争によって選ぶ世の入試制度や学歴主義が神の僕を選ぶ方法として使われる事が正しいことなのかどうかを深く考えて見なければならない。次の証がとても重要な教訓となるであろう。
「キリストの時代には、青少年の宗教教育のために方法を講じない町や市は、神にのろわれるものとみなされた。しかし教育は形式的になっていた。大部分言い伝えが聖書と入れ代っていた。真の教育は、青少年が『熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるように』することであった(使徒行伝17:27)。ところがユダヤ人の教師たちは儀式のことにばかり注意を払った。学ぶ者にとって無価値で、天の上級学校ではみとめられないような材料で頭がいっぱいになった。神のみことばを個人的に受け入れることによって得られる経験は教育制度の中に立場を与えられていなかった。外面的なことのくりかえしにばかり没頭していて、学生たちは神とともにすごす静かな時間がなかった。彼らは神のみ声が心に語りかけるのをきかなかった。彼らは知識を求めて、知恵のみなもとであられる神から離れた。」―各時代の希望上巻p.60,61

真の教育の目的

真の教育の目的を見失ったイスラエルは徹底的な学歴と知識中心の資格制度を追求することによって世で成功することができたかもしれないが、このようなことよりももっと重要なこと、つまり真理を愛することによって神の美しい御品性を回復させるという教育の真の目的は失ってしまったのであった。
であるからイエスは当時のこのような教育制度であったラビの教育を受けられなかったのである。今日教会が追及する教育制度も世を生きぬくためには有効な手段になるかもしれないが、真の教育の目的とは相反するものである。真の教育の目的は神の御形を回復させることでなければならず、天国にふさわしい品性をもった働き人を養成する教育でなければならない。
「教育の真の目的は、魂のうちに神のみかたちを回復することである。最初に、神は、ご自分のかたちにかたどって人を創造された 。神は、人間にすぐれた性質をお授けになった。人間の心は、よく均衡がとれていて、そのすべての能力には調和があった。しかし、堕落とその結果によって、これらの賜物はゆがめられてしまった。罪は、人間の中の神のかたちを、ほとんど消し去った。これを回復するために、救いの計画がたてられ、人間に猶予の期間が与えられた。最初に創造されたときの完全な状態に、人間を回復することが、人生の大目的であってその他のすべてのものの根底に流れる目的である。」―人類のあけぼの下巻p.258
「人類を創造された神の御目的が実現されるように、人の中に創造主のみかたちを回復し、人を創造当初の完全な姿にもどし、知、徳、体 の発達を促すこと、これが救済の働きとなるべきであった。これが教育の目的であり、人生の大目的である。」−教育p.5

霊的指導者の資格

霊的指導者の資格は学歴や資格制度によってではなく、クリスチャンの品性と忠誠心があかしされて、聖霊の実を結んでいるかどうかによって選ばれなければならない。知識や学歴がなくても、謙遜で単純な信仰と忠誠心をもっていた漁師たちを選ばれて御自分の教会の霊的指導者とされたイエスの模範は現代でもまだ有効な制度なのである。
このようなイエスの模範に対して反論があるなら、私たちは天の至聖所に保管された芽の出たアロンのつえを試金石として使わなければならない。
「第三天使の使命も、このようにして宣布される。それが非常な力で伝えられる時が来るならば、主は謙遜な器を通して働かれ、主の奉仕に献身した人々の心を導かれる。働き人は、学歴ではなくて、聖霊を注がれることによって資格を与えられる。」―各時代の大争闘下巻p.376
「神は完全な学校教育を受けていない人を使われることができ、またそのような人を使われるであろう。このように行われる神の能力を疑うことは不信を表すことであり、全能なる方の能力を制限することである。」−福音伝道p.488
現代の誤った教育制度を予見された神は、芽の出たアロンのつえを天の至聖所に保管された。そして厳粛な大贖罪の日であるこの最後の時代に天の至聖所の門を開き、芽の出たアロンのつえを示し、神の認められる真の霊的指導者がどのような人でなければならないかを明示されたのである。
であるから至聖所の時代においては、すべてが実で決められなければならない。真の霊的指導者は学歴や資格制度によってではなく神に対する忠誠心と柔和で謙遜な実によって任命されなければならない。
個人や教会を問わず真の神の僕の資格は血統や学歴ではなく、また数や、規模や施設の有無でもなく、すべてが実によって判断されなければならない。
「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」―マタイ3:10
個人や教会を問わず実を結ばない木はことごとく切られるであろう。いくら名が立派でも極上の実ではない野ぶどうを実らせるのならばことごとく切り捨てられるであろう。いくら多数であることや優秀な血統を自慢しても、良い実がないならば、ことごとく全ての枝も木も切りとられるのである。
「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。」―マタイ7:16-20
今も第三天使は天の至聖所の契約の箱の中に入っている芽の出たアロンのつえを見なさいと招いている。「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」と叫んでいる。学歴ではなく、すべてが実によって決定されなければならない。これこそ教会が霊的に生き、なまぬるい状態から脱出することのできる方法である。今日教会がこのようなラオデキヤ状態になった理由の一つはバビロンから由来した誤った制度によって霊的指導者を輩出したからである。知識と知恵は異なったものであり、実力と霊的なものは必ず比例するとは限らないのである。世的には無知でも知恵があり、実力は足りなくても聖霊の感動を受けた霊的な人物がいるのである。
「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」―コリント第一1:26-28

至聖所の使命

神はイスラエルの十二部族の族長たちのつえを聖所の庭でなく、最初の部屋である聖所でもなく、神の栄光の御臨在している至聖所に保管された。そして次の日、アロンのつえだけが実を結んだのである。
自然界の法則では木が芽を出し、花が咲いて、実ができるまでには約一年と言う時間が必要である。しかし至聖所の中に保管されたつえはたった一日で芽が出て、花が咲いて、実ができたという事実に注目してみよう。
再臨信徒たちよ!一日で乾いた木に芽が出て、花が咲き、実を結ばせることのできる聖なる力が至聖所にはあるのである。至聖所は語られるとすぐそのとおりになる創造主の力が御臨在している所なのである。であるから一晩の間に乾いた木に芽が出て、花が咲き、実を結んだのである。
愛する信徒たちよ!あなたがたの生涯に清めの実が結ばれることを望むであろうか?清めの実が結ばれることを望むならば、信仰によって至聖所に入らなければならない。これによってのみ実を結ぶことができ、完全になることができるのである。
至聖所はすべてが完全なところである。そこでは不完全を見出すことはできない。至聖所は正六面体で高さと長さと広さが同じであり、神の完全な品性を象徴する律法がある。
であるから天の父が完全であられるように完全であることを追求する者たちは至聖所に入る経験が要求されているのである。第三天使の使命は至聖所の使命であり、そこに入りなさいと言われる我等の主の御声である。それだから今も第三天使は至聖所に入る道を示しているのである。
「第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終わっている。彼は、この言葉を繰り返したときに、天の聖所を指さした。このメッセージを信じるすべての者の心は、至聖所に向けられる。」―初代文集p.414
「わたしは、第三の天使が、上の方を指さして、失望した人々に、天の聖所の至聖所への道を示しているのを見た。信仰によって彼らが至聖所にはいるときに、彼らはイエスを見出して、新たな希望と喜びを味わうのである。」―初代文集p.415
信徒たちよ、至聖所にはみ言葉を信じる者たちに聖霊の実を結ばせる力がある。最後の預言者は次のように書いた。
「多くの人々が信仰による義の使命が第三天使の使命であるかと手紙で私に聞いてきたが、私は『それこそ真の第三天使の使命である』と答えた。」―セレクテッド・メッセージ1巻p.372
「信仰による義は神が送られた使命である。この使命の実は神聖に至らすもので、神聖な信任状を持っている。」―セレクテッド・メッセージ1巻p.359
「義は聖であり、神に似ることである。そして『神は愛である』(ヨハネ第一4:16)。義は神の律法にしたがうことである。」―祝福の山p.22
信仰による義の使命は真の第三天使の使命であるということ、また至聖所の信仰による義の使命は神の御品性のようになるという美しい実を結ばせる力ある使命であるということを知っているであろうか?
三段階に区別されている聖所はその段階毎に私たちに「信仰による義」の使命を伝えているが、至聖所から照らされている義の使命は庭と最初の部屋との経験とは異なっているということを悟る者は祝福である。神が御自分の民に示される真理は徐々に光を増して遂には真昼の太陽のように表れるのである。至聖所の使命は真昼の太陽のように完全である。だから神の栄光に参加させる栄化を経験させる使命なのである。
第三天使の使命で救われる民は仲保者なしに神の前に立つ経験と聖霊が取り去られた後、世で生きるという特別な経験をしなければならない者たちなので、第三天使の使命はその時に備えて送られた神の使命である。

一日で実を結ばせる使命

第三天使は力ある天使であるということを記憶しているだろうか?また、第三天使の使命は実を結ばせる完全な使命であるということを信じているだろうか?
第三天使の使命はサタンの多くの誘惑に勝ち、神の戒めとイエスの信仰を持つことのできる能力をもっている。なぜなら第三天使が伝える信仰による義の使命はすべてが完全な至聖所から来る使命だからである。至聖所は一日で乾いたつえに実を結ばせるようにすることのできる神の御力が臨在するところであるということを記憶しなければならない。
「イエスは、聖所における奉仕を終わり、至聖所にはいって、神の律法を納めた箱の前に立たれたときに、世界に対する第三の使命をたずさえたもうひとりの力強い天使を、お送りになった。」―初代文集p.414
「多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所にはいったのである。わたしは、これらのメッセージが、神の民の錨であることを示された。それらを理解して信じた人々は、サタンの多くの欺瞞に押し流されないように守られるのである。」―初代文集p.417
「第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終わっている。」―初代文集p.414
「それから、この譬を語られた、『ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。』」(ルカ13:6)。いちじくの木は他の果物の木とは違って葉出て花が咲く前に実を結ぶ。そして実が育つ間に葉が出て、栄養を吸収し、その後に香りを放つおいしい実となって熟すのである。
エスが葉の茂ったいちじくの木から実を求められたが見あたらず、その木をのろわれた記録が聖書にある。このいちじくの木は葉がすでに茂っていたので、実が熟して香りを放っていなければならなかったのに、実がついていなかったのである。この木は実を結ばせるはずの栄養分が葉にだけ行き、大切な栄養分を浪費していたのである。であるから葉だけが茂った木は価値がなく、土地を無駄にふさぐだけであったので、イエスからのろわれたのである。
第三天使の使命は完全であり、至聖所からのものなので、実を結ばせる力がある。この使命を真の信仰によって受け入れる瞬間、まるでいちじくの実が先に実り、葉が後から出てくるようにさせるのである。第三天使の使命は葉よりも実を先に生じさせる力ある使命である。そしてこの実はただ完全という標準に向かって育ち、葉が茂るまでになり、全世界に神の栄光、品性を示すような救いの実となるのである。
三天使の使命を順番に経験する全ての魂は実を結ぶようになり、その実はみ言葉の力によって育ち続け、ついにはキリストの満ちみちた徳の高さにまで至るようになるのである。
しかし、実を結ばせるために充分な養分のある第三天使の使命が、葉だけ育つような方法に従って使われていないかということを、教会は省みてみなければならない。
全世界が眺めることのできる葉の茂った木のように、この世で最も巨大な教会組織に成長したとしても、実がないならば何の意味があるだろうか?人々には葉が茂っていて実が多いように見えても、もし実がないならばこの木の運命はどうなるであろか?「その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」と宣告される運命になるであろう。

乾いたつえのままでいる者

注意すべきことは、至聖所の中に置かれたイスラエルの十二部族のすべてのつえが実を結んだのではないということである。アロンのつえ以外はみな乾いたつえのままであった。この事実は第三天使の使命はたんなる理論ではなく、頭で理解しただけでは第三天使になれるのではないという事実を教えている。第三天使の使命は第一天使と第二天使の使命を順番に経験した者だけが経験できるものである。
いくら第三天使の使命に力があり、また創造の能力が臨在する至聖所の使命であるとしても、ただ信仰によって従う者たちだけが清い実を結ぶのである。第三天使の使命を知識としてだけ理解し、預言としてだけ悟るのなら、それはまるでアロンのつえ以外の乾いたつえのように、何の力もないということである。
必ず第一天使の使命によって真の悔い改めと告白がなければならない。また汚れた所から分離する第二天使の経験がなければならない。そして心をつくして神の律法を愛する心で従わないならば、乾いたつえのままの状態なのである。
至聖所の使命である第三天使の使命を与えられても命のない死んだ状態のままでいるならば「水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」といわれるであろう。
第三天使の使命を与えられた教会がラオデキヤの状態であるなら、至聖所の中に入れておいても変化のなかったつえと同じである。
「キリストをただ世の救い主として受け入れる口さきだけの信仰では、決して魂をいやすことができない。救いにいたる信仰は、頭だけで真理に同意することではない。全部わかるまでは信仰を働かそうとしない人は、神から祝福を受けることができない。キリストについて信ずるだけでは十分でない。キリストそのものを信じなければならない。われわれを益する信仰は、キリストを自分自身の救い主として信ずる信仰、キリストの功績を自分自身のものとする信仰だけである。信仰を一つの意見として持っている人が多い。人を救う信仰は、キリストを受け入れる者が神との契約関係に入る一つの取引である。真の信仰はいのちである。生きた信仰とは、活力と信頼心とが増し加わり、それによって魂が勝利する力となることを意味する。」―各時代の希望中巻p.74,75
「クリスチャンと公言していても、体験によってキリストを知らない人が多くいる。」―セレクテット・メッセージ1巻p.98
「告白だけでは無駄である。地上にある教会の名簿に記録されていても生命の書には記録されていない。私は20名の若者のうち体験的信仰が何であるかを知っている者が一人もいないのを見た。」―教会への証1巻p.504
「それは民にキリストの義を受け入れるように招いたが、これは神の全ての戒めに対する従順として現される。」―牧師への証p.92

大贖罪の日は一日

象徴的なイスラエルの大贖罪の日は一日であった。同じように実際的な大贖罪の日である現代、私たちに与えられた時間は一日しかないということを記憶しているであろうか?明日は我々の日ではない。大贖罪の日が一日であったように私たちに与えられた恵みの時間は今日一日しかないのである。明日は私たちの日ではないからである。三天使の使命は私たちの信仰の姿勢がどうあるべきかを教えてくれる使命なのである。
第一天使の使命はイエスが10年後に来られるという使命であり、第二天使の使命は3ヵ月後に来られるという使命であった。そうであるならば第三天使の使命はイエスがいつ来られるという使命なのだろうか?第三天使はイエスの再臨が今日であると叫んでいる。イエスは今日と言う時に来られるであろう。であるから私たちは今日準備されていなければならない。今日だけがわたしたちの日であるというこの真理は実に厳粛なものではないだろうか?
「毎朝、その日一日のためにあなた自身と子供を神に捧げなさい。何ヶ月や何年のために計画してはならない。これらはあなたのものではない。ただ一日だけがあなたのものである。まるでその一日が地上での最後の日であるかのように主のために一生懸命働きなさい。あなたの全ての計画を神の御前におき、その計画を行うにせよあきらめるにせよ全てのことを彼の摂理が指示する通りにゆだねなさい。神の御計画をあなたの計画の代わりに受け入れ、そのようにすることで長い間心に抱いてきた計画を捨てなければならないとしてもそのようにしなさい。」―3TT93p.
これが、第三天使たちが持たなければならない信仰であり生涯である。第三天使の使命を与えられた者が必ず理解し悟らなければならない真理は、キリストの再臨は明日ではなく今日であるということである。

救いの実―144,000人

至聖所に入れておいたアロンのつえに実が結んだように、至聖所に信仰によって入った者たちから十四万四千人の救いの実が結ばれるという預言はとても興味深い預言である。黙示録14章にはシオンの山の上に立って救いの歌を歌う民が十四万四千人であると書かれている。彼らは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である」(黙示録14:4)。
彼らは乾いたつえのように生命のない魂たちであったが、信仰によって至聖所に入って十四万四千人として実を結んだのである。
第三天使の使命はキリスとトサタンとの戦いに終止符をうち、救いの実を結ばせる使命である。
実は木の価値を決める最も確実な証拠であり、最も強力に真実を示す論証である。天で始まったキリストとサタンとの律法の戦いもそうである。サタンは神の御子が十字架で死なれることによって示された神の完全な品性を見たにもかかわらず、律法に対して訴え続けた。彼は神の律法には欠陥があり、従うことができないものなので変更しなければならないと主張した。神は六千年もの間、汚れと染みのない最高の実が結ぶことを待ち続けられたのである。
暗黒時代が過ぎ、ついに2300の夕と朝の長い預言が終わり、天の聖所が清められ始めた1844年から神の品性に似た最高の実が実り始めたのであった。第三天使の使命は信仰によって至聖所に入った人たちから完全な品性の実を結ぶようにしたのである。
彼らが「生ける神の印を持って、日の出る方から上って来る」天使によって印を押された救いの実である。
「次に、わたしは、第三天使を見た。わたしと一緒にいた天使は言った。『彼の任務は、恐るべき任務である。彼は、麦を天の倉に入れるために、麦を毒麦からよりわけて印をおし、たばねる。』」―初代文集p.221
第三天使は地上で救われた実たちが十四万四千人に満ちるまで数を数えながら印をおすであろう。
「わたしは天使たちが、天をあちこちと飛びまわっているのを見た。墨入れを持ったひとりの天使が、地上から帰ってきて、自分の働きの終わったことを報告した。そこで聖徒の数がかぞえられて封印された。すると、それまで十誡の納められている箱の前で奉仕しておられたイエスが、香炉を投げ捨てられるのをわたしは見た。」―初代文集p.452
「天使たちは、天をあちらこちらへと急ぎまわっている。一人の天使が地から戻ってきて、自分の働きが終わったことを告げる。すなわち、最後の試みが世界に臨み、神の戒めに忠実であることを示した者はみな、『生ける神の印』を受けたのである。…キリストの民の数は満たされ、・・・」―各時代の大争闘下巻p.385,386
イスラエルは、神を待ち望んでいよう。ぶどう畑の主は、今なお、あらゆる国々や国民の中から彼が長く待っておられる尊い実を集めようとしておられる。」―国と指導者上巻p.7
十四万四千人たちの汚れと染みのない品性によって神の律法は完全で守ることのできる律法であるということが証明されるとき、六千年間行われたキリストとサタンの大争闘は終結するであろう。
十四万四千の人々によって神の律法は完全であり守ることができるということが証明される。六番目の災いが終わる頃には偽の父であるサタンもこうべを垂れるであろう。キリストの仲保と聖霊の助けなしに神の律法に完全に従い、罪を犯さない生涯を生きた十四万四千人の完全な実が示されたからである。
ああ、なんと素晴らしい救いの計画、第三天使たちによるなんと完全な勝利なのであろう!真に憐れみ深い神が、武力や権力によってではなく、知恵と愛によって乾いたつえのような私たち人間を通して永遠に敵を征服されるのである。
キリストに続く救いの実であり至聖所の中で実ったその実によってふたたび罪は征服され、罪の創始者であるサタンの欺瞞が完全に暴露されたので、再びサタンの頭は砕かれるであろう。そのようにして死と黄泉の力は破られ、サタンと悪人たちは神の怒りを受けて永遠に消滅するであろう。
少し前まで善悪の大争闘で激しかったこの地に、義と平和の波だけがあふれる新天新地を私たちは見るようになるであろう。この新しい世界、死と苦しみと悲しみが無く、良心を苦しめる誘惑のない世界で、愛する主と共に永遠に生きるその日、あなたと共にその地で永遠に住むようになることを心からお祈りいたします。

「主イエスよ、きたりませ!」アーメン。

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