「聖餐式におけるキリストに従う」

 「食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。』」(第一コリント11:25)

 「キリストは、2 つの制度とその二大儀式の転換期に立っておられた。・・・弟子たちと過越の食事をされた時、主は、過越節の代りに、主の大いなる犠牲の記念となる式をお定めになった。ユダヤ人の国民的祭典は永久に過ぎ去るのであった。そしてキリストがお定めになった式が、どの国どの時代においても弟子たちによって守られるのであった。・・・主が力と栄光のうちにふたたびおいでになるまで、この儀式は守られる。」(各時代の希望下巻130,131)
 「キリストがご自分の民に会い、その臨在によって彼らを力づけられるのは、主が自らお定めになったこのような式においてである。・・・主に固い信仰をおいてこれにあずかる者はみな大いに祝福される。このような天来の特権の時をおろそかにする者はみな損失をこうむる。このような人たちについては、『みんながきれいなのではない』と言うことがふさわしいのである(ヨハネ13:11)。
 しかし聖さん式は悲しみの時となるのではなかった。これはその目的ではなかった。主の弟子たちは、・・・兄弟たちとの間の不和を思い出すのではない。すべてこうしたことは洗足式に含まれていたのである。・・・いまは彼らはキリストと会うために来ているのである。彼らは、十字架の影ではなくて、救いの光の中に立っている。彼らは、義なる太陽キリストの輝かしい光に向かって魂を開くのである。彼らはキリストのとうとい血潮によってきよめられた心をもち、目に見えなくてもキリストの臨在を十分に意識して、『わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる』と言われる主のみことばを聞くのである(ヨハネ14: 27)。・・・
 聖さん式はキリストの再臨をさし示している。それはこの望みを弟子たちの心に生き生きと保つためであった。・・・苦難のうちにある時、彼らは主の再臨という望みに慰めを見いだした。『だからあなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである』との思いは、彼らにとって口に言い表せないほどとうといのであった(Ⅰコリント11:26)。」(各時代の希望下巻137,140)

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