「人が協力する時」

 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)

 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示録3:20)。このように世の贖い主は、人間の心に働く聖霊の働きを例にあげて説明しておられる。人は主の日に主の幸せな喜びを自分のうちにもたらすために、自分自身の信仰の行為によって主のために、主のみ手に自分を預ける。キリストにある信仰を絶えず働かせ、キリストの中にとどまり、主を信じる信仰によって従わなければならない。
 これは訓練の過程であり、それによりキリストが人間の心の中で、ご自身の偉大な働きをなさるのである。精神と心の絶えず続く鍛練であって、自我すなわち古い生まれながらの自我は死んで、キリストの意志が、私達の意志となる。主の道が私達の道となり、人は精神と心と知性においてもはや、悪ではなく、キリストの義を行なう神のみ手の器になる。…
 天の配剤においては、神は人間の協力なしには何事もなさらない。神は人の意志を強制なさらない。人の意志は主に完全に与えられなければならない。さもないと、主は、人間を通してなさる主の聖なる働きを完成することはおできにならないのである。イエスはある場所で、人々の不信仰のゆえに、彼らの間で多くの力あるわざをなすことができないと言われた。主は人々が何をする必要があったかを知っておられたので、その場所で彼らのためにそれをすることをお望みになった。しかし不信仰が道を閉ざしたので、それをすることができなかった。土器もすえつくりの手におかれないならば、ほまれあるものに形造られはしないのである。クリスチャンの生涯は、日毎の自己の明け渡し、服従、そして絶えず続く勝利、毎日新しい勝利を得ていくそれである。これは、キリストの内に成長し、聖なる模範であられる方の内に生涯を形造っていくことである。…
 献身、敬虔、そして全人的聖化は、私達の義であるイエス・キリストを通して実現される。神の愛は、絶えず求められる必要がある。私の心は、いかにイエス・キリストの心を求めて、生ける神に叫ぶことか。私は自我という視力を失いたいのである。(MS24,1890)

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