「偉大なる教師のもとに」

  「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(第ニコリント5:17)

 真の改心が心に起こる時、品性の改変となって現われるものである。なぜなら、改心した者はキリストのようになるからである。自尊心はもはや心の中に存在しない。罪は忌まわしいものと思うようになる。改心した魂は自分の道徳的感覚を低下させるようなことを嫌う。彼は命と栄光の主を十字架につけたものを嫌う。真に改心した者は主と救い主イエス・キリストの知識に成長し、キリストの知識が増大する時、彼らはもっと明らかに、自分の弱さを知り、自分の性質の深い堕落に気づくのである。彼らは罪の力を理解し、自分達の古い習慣の力を知る。…彼らは、毎日、イエス・キリストの助けなしには何事も全くできないという実感を持つ。それゆえに彼らは「私は、私の助けなき魂をあなたにゆだねる。私の手には、支払う代価もなく、ただ、あなたの十字架のみにすがりつく」と言う。
 罪人が神の小羊を見つめる時、彼はもっとはっきりと、世の罪を取り除くために、神がなさった準備を見る。彼はあらゆる戦いに、恵みの御霊が十分に、そして必要を満たすだけ与えられていることを知る。罪を取り除くための神秘的な備えはイエス・キリストである。…「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(第一ヨハネ2:2)。
 真のクリスチャンは、キリストのために、自己否定を行なうことを拒みはしない。神の子供である人々は熱心な働き人である。彼らは怠情な僕ではない。神の家には怠け者はいない。信仰の家族の一人一人は自分に割り当てられた仕事を持っている。…もし、彼がキリストの学校で学ぶ者であるならば、彼はあかしをする方法や祈る方法、又主人の証人としての生き方を学ぶ。…
 真のクリスチャンは勤勉で、絶えず学ぶ者である。彼は自分の知恵や力、又経験の足りなさに気づき、自分の意志と自分の関心をすべて偉大なる教師であられる方にお任せするのである。(letter1893.12a)

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