「訓戒者であり友である」

 「ユダについては、こう言った、『主よ、ユダの声を聞いて、彼をその民に導きかえしてください。み手をもって、彼のために戦ってください。彼を助けて、敵に当らせてください。』」

 人生は航海のようなものである。私達には嵐や晴天がある。しかし、私達は、目指す港に近づきつつあるということを心に覚えている。私達は、間もなく暴風雨と嵐とを越えるであろう。私達の現在の務めは「わたしは柔和で心のへりくだった者であるからわたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われる声を聞くことである。私達はこの招きを日毎に受け入れなければならない。過去はすべての事柄が書かれている本の中におさめられている。私達は記録を消し去ることはできない。しかし、私達は、自分が選ぶならば、多くのことを学ぶことができる。私達は過去から教訓を学ぶべきである。私達は、過去を訓戒者とする時、過去を私達の友とすることができる。
 私達が過去において経験した不愉快なことを思い出すとき、私達はそれを繰り返さないことを、そこから学ばなければならない。後悔を伴うようなことを続けてはならない。私達は今、悪を避けることができる。私達が生きていろ毎日は、私達の歴史を作っているのである。今日は私達のものである。昨日を、私たちは修正したり、制御したりすることはできない。だから私達は、今日、神の御霊を悲しませないようにしよう。なぜなら私達は明日になって今日の日を呼び戻すことはできない。今日という日は、明くる日には昨日になっているのである…
 イエス・キリストは、それを感謝するすべての者のために、豊かな恵みと助けを持っておられる。主は私達の助け手である。許しは主と共にある。主のみが過去の罪を消し去ることができる。主は心を強めて下さる。もし私達が、過去を私達の敵と思わず、私達が近づくべきでない場所から離れるようにと警告してくれる友として考えるなら、過去は真実の友であることを示すであろう。
 私達は、善をつかんで感謝し、そして、悪を避けているであろうか。私達は神と共に謙遜に歩いているだろうか…。私達は失敗したり、又失望したりしてはならない。そうすれば、今、私達には支配できない現在の働きも将来には私達にとって、報いとなるであろう。…私達が働くことのできるのはわずかな期間しかない。私達は、心配する心を養ってはならない。目を前方に保ち、イエス・キリストにあって、私達の高い召しの標準に目をじっと向けていなさい。私達にはなすべき仕事がある。すべての行為を、天の全宇宙の人々の目の前でしているかのようにしなさい。私達は気落ちしたり、不信仰につまづいたりすべきではない。神は、私達が神を自分たちの力として見上げ、ご自分にあって私達が完全な者となるよう努力することを望んでおられる。(Letter66,1898)

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「神が用いられる生涯」

 「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。」(イザヤ43:7)
 
 私達の生涯は主のものであり、私達が十分には理解していない責任を授けられている。自我という糸が、織物の中に織り込まれてきた。そしてこれは神の誉れを汚すものである。
 ネヘミヤは、彼が住んでいた宮廷で、君主に、そして、エルサレムでは彼の民に大きな影響力を得た後、彼自身の品性のすぐれた特性や、注目すべき才能や、活動力に賞賛を帰すことはしないで、事実に即した事柄を述べたのであった。彼は、自分の成功が、自分の上におかれた神の良きみ手によるものであったことを明言した。彼は、自分の影響をもたらすあらゆる立場において、神が、自分の保護者であられるという真理を大切にした。彼が賞賛を得ることになった品性のあらゆる特徴に対して彼は、神の活動的な力を賞賛したのであった。‥・
 私達は、あらゆる影響力は神のために用いられるべき尊いタラントであるということを、深く考える必要がある。・‥私達は、自分が持っているすべての能力を正しく認識する必要かある。なぜなら、それは、神の栄光のために活用するべき、借りた資本だからである。…自分から得たどの影響力も、自分自身にある何か価値あるものの結果であると、人には考えやすい誘惑が常にある。主は、こういう人達と共には、働かれない。なぜならそれは、ご自身のみ名に属している栄光を、どんな人間にも与えられることはないからである。…主は、へりくだった、信用できる僕をご自分の代表者すなわち自己を高めない者、彼が考えるべき範囲を越えて、自分自身を高いと考えない者を代表者とされる。このような人の生涯は、生きた供え物として神にささげられたものであり、そういった生涯を、主は受け入れられ、用いられ、支持なさるのである。主は、人をご自身の知恵で賢くしようと、切望しておられる。そのような知恵は、主ご自身のために使われるからである。主は、献身した、へりくだった働き人を通してご自身を現わされるのである。…
 受けた知識と恵みを、他の人々に分け与えるために用いるようにと、委ねられたあらゆる能力を神聖な宝として用いなさい。このようにしてあなたがたは、神が能力を与えて下さった御目的に応えることになるのである。主は、私達に、イエス・キリストの中に、自我を沈めるように求めておられる。そして、すべて神のために栄光が帰せられるべきである。(letter83,1878)

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「あずけられた資本」

 「そこでイエスは彼らに言われた、『もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。』」(ヨハネ12:35)

 これは真理を信じていると言っているあなたがたに対して私達が与えようとしている警告である。「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。」私達は、あなたがたに人生の短いことを考えてもらいたいと思う。なんと時は速く過ぎ去ることてあろう。黄金の機会と特権は私達の手の届く範囲内にある。満ちあふれる、豊かな神の慈悲は、その豊かな宝をあなたが求めるのを待っている。救い主は、ご自分の祝福を価なしに分けようと待っておられる。問題はただあなたがそれらを受け入れるだろうかということなのである。豊かな準備がなされており、光はあらゆる道に輝いている。しかしこの光はそれを評価しない人達、それを受け入れ、それに応えようとしない人達、あるいはそれを持っていながら、その光を他の人に分け与えようとしない人達には、その貴重さを失うのである。
 あなたの人生、あなたの魂、あなたの力、あなたの能力、あなたの心と身体の力は、あなたの人生を通じて、あなたの主に対して改善されていくべきゆだねられた資本として、考えなければならないものである。あなたは神の偉大な軍隊におけるあなたに割り当てられた命令を遂行すべきである。またあなた白身の魂と他の人の魂を救うために主の計画を実行すべきである。これはあなたが矛盾のないクリスチャン生活を送り、熱心な努力を続けることによって、又キリストの学校において主の道(方法)、主の目的、そしてあなたの意志を従わせ、キリストのみ心と道(方法)を歩むことを学ぶことによって行うことのできるものてある。…
 クリスチャンは、世俗的な生活とはっきり区別された生活を営むべきである。世俗的名利を追う人は安っぽい人生を送る。そういう人は霊的生活に同意しない。神の愛を持っているものは、命を持っているものであり、彼らの望みはこの世の中にではなく、キリストの中にあって偉大なる中心となっているのである。…
 「御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持っていない」(第一ヨハネ5:12)。キリストを信じている者は彼らの動機の力、彼らの品性の構造を彼らが信じている主から引き出すのである。「あなたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。」(第二コリント13:5)(YI1895.1.10)

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「最も有利な投資」

  「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。」(詩篇139:14)

 「この世でただ一度だけの人生が私達に与えられているので、『自分の人生が最も利益をもたらすにはどのように人生を過すべきであろうか』とひとりひとり問うべきである。人生は私達と人間同士の利益のために、そして神の栄光のために活用する時にのみ価値がある。創造主が私達に授けて下さった能力を注意深く開発することは、私達をこの世界で有用な者とし、きたるべき世界において永遠の命を持つのにふさわしい者とするのである。健全な身体と精神の健康を、確立し、保つために向けられる時間は良く使われた時間である。…健康を失うのはたやすいが、回復するのはむずかしい…。
 私達は身体のどんな器官でも酷使と乱用によって、心と体の機能を発育不全にさせたり、かたわなものにさせたりする資格はない。もし、私達がこのようにするなら、必ず、その結果に苦しまなければならない。私達のすべての力を発達させることは神と私達同胞でもある人間に対する最初の義務である。創造主か私達に与えられたすべての能力は、完全の最高点にまで開発されるべきである。そうすることによって、私達は、私達のできる最大限の善をなすことができるようになるのである。キリストの恵みは、心を磨き、純潔にするために必要である。それは、私達の欠陥を知って、正し、私達の品性をすばらしいものにしてくれるものである。イエスの力と名前において私達白身のためになされるこの働きは私達が説教するどの説教よりもはるかにすぐれていて、社会に利益をもたらすものである。よく調和がとれ、秩序正しい人生の与える影響は、計り知れないほど価値のあるものである。自分達の食習慣がとれほど自分達の健康や品性、又この世における自分達の有用性、そして、自分達の永遠の運命にかかわりを持っているのかを理解するために、十分目覚めさせられている人は、ほとんどいない。食欲は道徳的、知的器官に従属しているべきものである。
 肉体は精神に仕えるべきてあって、精神が肉体に仕えるべきではない。すべての人は自分自身の身体的構造に関して理解を持つべきである。そうすれば人々は詩篇記者と同じように、「わたしはあなたをほめたたえます。わたしは恐るべく、くすしく造られたからです。」と叫ぶことができるであろう。(RH1884.9.23)

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「人生最上のもの」

 「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)

 私達の人生のあらゆる瞬間は、真剣な現実である。人生は遊びではない。それは恐ろしい程の重要性を負わされており、永遠の責任が伴っている。私達が人生をこの観点から見る時に、神の助けの必要を実感する。キリストのいない人生は、完全に失敗の人生であるという事を罪の自覚は私達にわからせる。しかしもしイエスが私達と共におられるならば、私達は一つの目的のために生きることができる。その時、私達は神の恵みと聖霊の力なしには、神が私達の前に置かれた高い標準に到達することがてきないということを実感できるのである。私達が到達するべき品性の聖なるすぐれた特性があり、天の標準にあう努力を真剣にすることにより、聖なる動機が私達に注意をうながし、心はつり合いの取れたものとなり、そして魂の不安はキリストの内にある休息によって払いのけられるのである。
 私達はいかにたびたび、決して幸福になれない人々と接触することであろう。彼らはイエスがお与えになることのできる満足と平和を楽しむことができない。彼らはクリスチャンであると公言するが神のみ約束が成就される状態に従わない。イエスは、わたしのもとにきなさい。…わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)と仰せになった。なぜ多くの人が休息のない状態にあるのか、その理由は、彼らが主の学校で学んでいないからである。従順で、献身的な神の子は、キリストの平安を持つことがどういうことであるかを経験によって理解する。(RH1891.9.22.)
 人生の最上のものすなれち単純、正直、真実、純潔、汚れのない誠実などは、売り買いするべきものではない。それらは教育を受けたものと同様に、教育のない者にも、又白人と同様に黒人にも、また玉座に座る王と同様に貧しい者にも、ただで与えられるものである。…
 私達はみな人生という畑で種をまいている。私達はまくように刈り取る。自己愛や無情、しっとなどをまく者は、同じ様なものを収穫する。無我の愛や親切、又他の人々の感情に対するやさしい思やりなどの種をまく人々は尊い収穫を刈り取るのである。(Letter109.1901)

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「キリストの価の高い宝石」

  「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

 天の王国は「高価な真珠一個を見い出すと、行って持ち物をみな売り払い、そしてこれを買う」「良い真珠を捜している商人」のようなものであると表現されている。
 このたとえ話は、ただ単に天の王国を求めている人にあてはまるだけではなく、またキリストがご自分の失われた子らを捜し求めておられるという二重の意味を持っている。罪を犯すことによって、人はその神聖な純潔を失い、自分をサタンにささげてしまった。神のひとり子てあられるキリストは、人間の贖いのために自ら誓いを立て、カルバリーの十字架の上で人の身代金を支払われたのである。主は罪に落ちなかった諸世界、天にあって仕える聖天使達の集まりを離れられた。人類がご自分から遠ざけられている間は、満足することがおできにならなかったからである。天の商人であられる方は、王衣と王冠をかたわらへ置かれる。全天の指揮者であり、王子であられるけれども、主は人性という衣をご自身にまとい、のろいによって傷つけられ、無感覚にされた世界においでになる。失われた一個の真珠を捜し出し、不従順によって堕落した人を探すために来られるのである。…
 主は、がらくたの中にうずもれているご自分の真珠を発見される。人間の心は利己心で包まれ、サタンの暴虐によって縛られている。しかし主は、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを語り伝えるために、暗黒の中から人間を引き上げられる。私達は神と契約を結ぶ関係に入ることを許され、ゆるしを受け、平和を見い出すのである。イエスは失われた人類という真珠を見つけ、ご自分の王冠のもとの場所へそれをおもどしになる。…
 彼は最も罪深く、最も堕落した者に希望をお与えになる。主は「わたしに来る者を決して拒みはしない」と仰せになる(ヨハネ6:37)。魂が救い主を見い出す時、救い主は良い真珠を見い出した商人としてお喜びになる。主の恵みによって、魂が天の王国にふさわしく磨かれた宝石のようになるまで、主は働かれる。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。」(Y11895.10.10)

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「価をつけることのできない真珠」

  「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」

 この高価な真珠は、畑に隠されている金のように、キリストの価をつけることのできない宝をあらわしている。キリストにあって私達は、この人生で、私達に必要なすべてのものを持つ。そしてそれはきたるべき世の喜びとなるものである。この世のすべての金を持ってしても、平安と休息、また、愛の賜物を買うことはできない。これらの賜物は、キリストにある信仰を通して、私達のために用意されている。私達はこれらの賜物を神から買うことはできない。私達はそれらを買うために何も持っていないのである。私達は神の所有物である。神の御子の命という身代金によって体も、魂も、心も買い取られているからである。
 では永遠の宝を買うというのはどういうことであろうか。それはイエスに主ご自身のものを単純に返し、信仰によって、心に主を受けいれることである。それは神と協力することであり、ま、キリストと共にくびきを負うことてある。そして、主の重荷を共に負うことである。…主イエスは人性によって人類を高めるために、その王冠をかたわらへ置き、ご自身の高い支配者の地位を去り、人性をもってその神性をおおわれた。主はそのように人類の可能性を認められたので、人間の身代わり、また保証人となられたのである。主は人の上にご自身の功績を置かれ、このようにして神と共なる道徳的価値の標準に人間を高められるのである。
 キリストは、贖いの犠牲である。主は天の栄光を離れ、ご自分の富を手放しご自分の栄誉をかたわらにおかれた。それは神の心の中に人間に対すろ愛と関心を生じさせるためではなく、天父の心の中にすでに存在している愛の説明者となるためであった。‥イエスはご自分のすべての富を代価としてお払いになり、人性をおとりになった主は貧乏と屈辱の生活へと身をおとされた。それは主が失われていた者を探し救おうとされたからであった。
 キリストの恵みを通して、私達は強められ、成長させられる。たから私達は現在は不完全であるが主にあって完全なものになることができる。私達はサタンに自分を捧げていた。しかしキリストは私達を贖い、買い戻すために来られた。私達は神から何も買い取ることはできない。私達が救われるのは、ただ恵みによってだけであり、キリストの内にある神の自由の賜物によってだけである。(YI1895,9,5)

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