「価をつけることのできない真珠」

  「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」

 この高価な真珠は、畑に隠されている金のように、キリストの価をつけることのできない宝をあらわしている。キリストにあって私達は、この人生で、私達に必要なすべてのものを持つ。そしてそれはきたるべき世の喜びとなるものである。この世のすべての金を持ってしても、平安と休息、また、愛の賜物を買うことはできない。これらの賜物は、キリストにある信仰を通して、私達のために用意されている。私達はこれらの賜物を神から買うことはできない。私達はそれらを買うために何も持っていないのである。私達は神の所有物である。神の御子の命という身代金によって体も、魂も、心も買い取られているからである。
 では永遠の宝を買うというのはどういうことであろうか。それはイエスに主ご自身のものを単純に返し、信仰によって、心に主を受けいれることである。それは神と協力することであり、ま、キリストと共にくびきを負うことてある。そして、主の重荷を共に負うことである。…主イエスは人性によって人類を高めるために、その王冠をかたわらへ置き、ご自身の高い支配者の地位を去り、人性をもってその神性をおおわれた。主はそのように人類の可能性を認められたので、人間の身代わり、また保証人となられたのである。主は人の上にご自身の功績を置かれ、このようにして神と共なる道徳的価値の標準に人間を高められるのである。
 キリストは、贖いの犠牲である。主は天の栄光を離れ、ご自分の富を手放しご自分の栄誉をかたわらにおかれた。それは神の心の中に人間に対すろ愛と関心を生じさせるためではなく、天父の心の中にすでに存在している愛の説明者となるためであった。‥イエスはご自分のすべての富を代価としてお払いになり、人性をおとりになった主は貧乏と屈辱の生活へと身をおとされた。それは主が失われていた者を探し救おうとされたからであった。
 キリストの恵みを通して、私達は強められ、成長させられる。たから私達は現在は不完全であるが主にあって完全なものになることができる。私達はサタンに自分を捧げていた。しかしキリストは私達を贖い、買い戻すために来られた。私達は神から何も買い取ることはできない。私達が救われるのは、ただ恵みによってだけであり、キリストの内にある神の自由の賜物によってだけである。(YI1895,9,5)

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