1月22日説教「新たなる力」

 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31

 今日の礼拝の時間は「新たなる力」について学んでいきたいとおもいます。イザヤ書には誰が力を得ると書いてありましたか?「主を待ち望む者」です。「主を待ち望む者」とはどのような人々でしょうか?・・・・皆様は「主を待ち望」んでいらっしゃいますか?

 彼らはどんな力を得ますか?「新たなる力」と書いてあります。この「新たなる力」を得るとどのようになることができますか?わしのように飛ぶことができると書いてあります。わしがどのような鳥ですか?皆さんはわしが飛ぶのを見たことがありますか?この鳥は鳩やすずめ、カモメなどのような飛び方はしません。非常に力に満ちた飛び方をします。「つばさをはってのぼることができる」のです。

 また、「新たなる力」を得る者はどのようになると書いてありますか?走っても歩いても疲れることも弱ることがない。皆様はマラソン選手が走っているのを見たことがあると思います。また自分でマラソンをしたことがあるかもしれません。走っているとだんだんどうなりますか?力が無くなってきてとても苦しくなってきます。そうして最後の力をふりしぼって、ゴールします。しかしもし、全力で走ってもまだ十分に力が有り余っていたらどうでしょうか?

 「新たなる力」を得たものはこのような人々であります。走っても、走っても力が有り余っているのです。なんと素晴らしいことではないでしょうか?

 「新たなる力」の源は何でしょうか?これを得るためにはどのようにすればよいのでしょうか?

 神のすべての命令と神のすべての約束は力であり命であります。私達が神の約束を悟り、神の命令を実行することによって私達は力を得ることができます。神の品性と命はどこに見出すことができますか?神のみ言(ことば)に見出すことができます。それを信仰によって受け入れることによって力を受けることができます。

 「神の言葉は種である。どの種の中にも発芽力がある。・・・」(COL)
 種の中に何がありますか?力があります。エジプトのピラミットの中に保管されていた何千年も前の種でも芽を出すことができます。なぜですか?その種の中に力、命が保存されていたからです。

 「種の中に植物の命が含まれている。そのように、神の言葉には命がある。『わたしがあなたがたに話した言葉(ことば)は霊であり、また命である』(ヨハネ 6:6 3 )。『わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受ける』とキリストは言われる(ヨハネ 5:24 )。神の言葉の中にあるすべての命令とすべての約束には、力、すなわち、神の命そのものが宿っている。それであるから、命令はなしとげられ、約束は果たされる。信仰によって、言葉を受け入れる者は、神の命と品性そのものを受けているのである。」(同上)

 主は言われました。「私があなたがたに話したことばは・・・」何であると言われましたか?「霊であり、命である。」霊と命に何がありますか?力があります。種である神のみ言には力があります。「新しい力」があるのです。神の命そのものがこのみ言に宿っているのです。

 では私達はそれをどのように実際に力とすることができますか?力と命がある場所がわかっても、自分のものしなければ意味がありません。それを自分のものとするためにはどのようにすればよいですか?それを自分の手でつかみとらなければなりません。信仰の手によってつかみとらなければならないのです。信仰によってみ言を受け入れる者は、神の命、神の品性、神の力を自分のものとするのです。それが「新たなる力」です。自分のものではなかった力ですから、「新たなる力」であります。自分の中からではなく外部から与えられるから「新たなる力」です。

 この力を得ることによって、私達はわしのようになることができます。信仰の翼によってもっと高く、もっと清い品性を自分のものとすることができるのです。またどんな試練の時にあっても、走りぬく力を得ることができます。罪への完全な勝利を体験することができます。勝ち得てあまりあるのが、神の力、主を待ち望む人々が得る力なのです。

 しかし、種をそのままにしたままでは芽はでてきません。石のような畑や硬い土にまいてもだめです。もし芽が出てもすぐに枯れてしまうのです。

 種を発芽させるためには何が必要ですか?発芽させるためでしたら湿度が必要です。その種に適した湿度が必要です。私達の霊的な芽を出すためにも必要な条件があります。霊的な湿度である聖霊の働きが必要なのです。しかし、種を蒔く目的は何ですか?芽を出すためではありません。成長させ、実を収穫するのが目的です。

 では成長するためには何が必要ですか?

 成長するためにはその種に合った養分や日光、雨が必要です。すべての種が同じ条件ではありません。しかし、その種が成長するための条件が与えられるのなら、実を結ぶようになるのです。

 私達が正しい状況の下に種を蒔くのなら、神の品性という実が実るようになります。しかし、ある人々は自分の心に雑草の種を蒔きます。

 偽の種を蒔こうとするのは誰の働きですか?サタンです。私達はサタンの働きを甘く見てはいけません。エバを誘惑したへびが見せたのはどんな実でしたか?見た目に美しい実でした。現代もサタンはエバを誘惑したような見かけの美しい実を私達に見せ、美しい声で話しかけようとしています。そしてその実を手に乗せてそれを食べてみなさいと言うのです。

 エバがその実を食べたらどんな気分になりましたか?自分が何か高い状態になったような気がしました。現代も同じです。神は私達の霊的な健康を維持させ、永遠の命に到らせる実を準備してくださっています。しかし、それらの実を無視し、見かけは良くてもサタンの準備した実を食べるならどうなりますか?私達は神の準備してくださった食物を食べ、それで満足しなければなりません。そのような食物を食べるのなら、私達は「新たなる力」を得ることができます。

 この「新たなる力」は神の愛の中に見出すことができます。今日は神の愛の中にある「新たなる力」について七つのことを考えていきたいと思います。


1.神の愛には癒しの力がある。


 「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」第一ヨハネ4:19

 神の愛の中には力があります。どんな力ですか?それは癒しの力です。自然界を見てください。癒しの力が満ち溢れています。それは回復の力です。皆さんは体のどこかに小さなとげが刺さったことがあると思います。痛みを感じます。それは体には癒しの力がある証拠です。もし傷ついて血がでると、体は回復しようとして働きます。私達の人間関係や、私達の罪によって傷ついた品性はどうでしょうか?これらは神の愛によって回復され、癒されることが可能です。キリストは私達を癒すために、ご自身を捧げられたのでした。

 私達は神のみ前で皆教えを受ける立場にいる生徒たちです。私達は偉大な教師キリストから教育を受けなければなりません。この教育の目的は何ですか?回復です。どんな回復ですか?神の御形に回復されることです。アダムとエバは神に似たものとして創造されました。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」。(創世記1:26)

 回復されなければならないという事実は、私達が今どういう状態であるということですか?堕落し、傷ついた状態であるということです。ですから回復の道が準備されているのです。これこそが神の憐れみ、福音です。回復されるためには力が必要です。品性の回復というのは心の回復、頭脳の回復、想いの回復を主に指しています。これがなされるためには、何が必要ですか?神のみ言、聖書です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネ1:1〜4)これは頭脳、心の回復の為に神が供えてくださったものなのです。

 皆さんは白米が美味しいと思いますか?玄米が美味しいと思われますか?玄米を食べ慣れていない人には、白米が本当に美味しいし、食べやすいのではないでしょうか?黒くて重いパンよりも、ふわっとして口のなかで溶けるような白パンが口には食べやすいのではないでしょうか?しかし、玄米、黒パンは良く噛み、味わって食べるのなら、これほど美味しいものはないのです。体に良いのはどちらですか?食べにくい方です。良く味わってみなければその本当の美味しさがわからない方が体に良いし、力になるのです。

 霊的にも同じです。世の中には食べやすい白パンのような教会、教理、また沢山の本があります。多くの偽りや誤りがあります。私達が食品を買うときその中に何が入っているか表示を良くみます。時々、体に悪そうな添加物等が入っていたら買わないようにします。しかし、その表示がすべて正直に書かれているものではないということを私達は知っていなければなりません。私達の霊の食べ物も同じです。世にはいろいろな美味しそうな霊的な食物があります。しかし、私達は気をつけなければなりません。神の準備された神の聖霊の印が押されたものを食べるようにしなければなりません。

 真のキリスト教会も玄米のようなものです。教会に来て、ただ神を賛美し、心が平安になるお話しを聞いて、仲の良い友達とおしゃべりして神の愛は素晴らしいと笑っていられるのが真の教会ではありません。勿論私達は真の意味で神からの平安と喜びを心にもつクリスチャンでなければなりませんが、それは困難な問題に直面し、キリストの力によって勝利することによって得られるものです。美味しくないと思える玄米のような試練を良く噛み砕いて味わうことによって、それを消化し、霊的な力とすることができるのです。

 「人間の心は、考えるように訓練された問題に、次第に順応してくるものである。ただありふれたつまらぬことだけを考えていると、心は、萎縮して衰弱する。困難な問題と取り組むことが全然なければ、しばらくするうちに、成長する力をほとんど失ってしまう。教育する力として、聖書に匹敵するものはない。心は、神のことばの中に最も深遠な思想と最も崇高な熱望の主題を見いだす。聖書は、人間が所有する最も教訓の豊かな歴史である。それは、永遠の真理の根源から直接与えられたものである。そして、神のみ手が各時代を通じて、その純粋性を保持してきた。それは、人間的研究によっては、見通すことのできない遠い過去を照らし出している。神のみことばの中に、地球の基礎をすえ、天を張った力を見る。人間の偏見と誇りに汚されていない人類歴史を発見できるのは、ただここだけである。ここに、世界最大の人物の苦闘と敗北と勝利とが記録されている。ここに、義務と運命の大問題が展開されている。見える世界と見えない世界を隔てている幕が揚げられて、罪が最初に侵入した時から、義と真理が最後に勝利するまでの善と悪の軍勢の争闘を見るのである。」(PP下259)

 神様は私達に癒しの力を与えてくださいました。それは玄米のように栄養が削られていない霊的食物をとることによって得られるのです。神は先ずだれを愛してくださいましたか?

 私達が愛し合う理由は、「先ず、神が私達を愛してくださったから」であると書いてありました。神は先ず、み子イエスではなくて、まず、罪のない天使たちではなく、先ずだれですか?罪のある私達です。最初に私達を優先して愛してくださったのです。感謝ではないでしょうか?この愛に癒しの力があります。


2.神の愛には私達の人生を変える力がある。


 「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。」第一ヨハネ3:1

 英語ではBEHOLDとかいてあります。よく見なさいということです。私達が神の子と呼ばれるために、どんな大きな愛を父から賜ったのか。私達はこの愛をよく見なければなりません。どのようにすれば良く見ることができますか?それは、キリストを見ることです。特に十字架にかけられたキリストを見なければならない。私達は聖霊が見るように求めている通りにキリストを見ていません。ある人の見ているキリストと他の人の見ているキリストの姿が違うのです。なぜこのようなことが起こりますか?ある人々はキリストをただ優しいだけの方として見ます。それは自分の作り上げた理想です。ですから私達は聖書をよく研究しなければなりません。そこに神の愛と義を見出さねばならないのです。愛というのは、私達を幸福にするものです。義もそうです。愛と義は、私達の罪を取り除くようにと導くのです。しかし、それを認めない人は、キリストの真の姿を見ることができません。ただ優しい方、なんでも受け入れてくださる方、決して怒らない方。そのようにしかキリストを見ないので、神の愛と義を正しく理解することができないのです。

 私達はキリストの真の品性を見なければなりません。そうすることによって私達自身が正しい品性に造り変えられるようになるのです。この経験をする時、私達のキリストへの愛と信頼はもっと、強くなっていきます。もっと謙遜になり、もっと喜びに満ち、もっと柔和な者となります。

 「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

 これは命令であると同時に約束であります。私達は私達の範囲において完全な者となることができるのです。そのためには天の父の御品性をキリストを通して知らなければなりません。それを知るようになると、私達の心はキリストに捕らわれ、キリストのようになりたいと熱望するようになるのです。

 ですから神の愛は私達の人生を変えてしまうのです。生きた信仰によって不信は取り除かれます。私達をまず愛してくださった神の愛、神の子とよばれるようにしてくださったこの愛を私達はもっと真剣に、もっと真摯になって熟考しなければならないのです。


3.神の愛にはあなたを自由にする力がある。


 第二コリント3:17「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」

 主は何ですか?霊です。そして主の霊があるところには何がありますか?自由です。この自由はどんな自由なのでしょうか?

 「全身に及ぶキリストの御愛が、人を活気づける力となるのである。」

 何が人を活気づける力となりますか?キリストの愛です。全身に及ぶキリストの愛です。

 「それはすべての重要な部分、すなわち脳や心臓や神経にいやす力をもって触れる。」

 重要な部分がどこですか?脳、心臓、神経です。キリストの愛はそれらにどんな力を持っていますか?いやす力です。

 「それによって人間の最高のエネルギーが覚醒され、活動するようになる。
これは生命力を破壊するような罪と悲しみ、憂慮や心労から人間を解放する。」
 
 神の愛は人間の何から自由を与えますか?罪と悲しみ、憂慮や心労から自由を与えるのです。私達にはこのような薬が与えられています。しかし、皆さんこの薬を使いますか?多くの人々がこの薬を認めるだけで終わっているのです。

 「そして平静さと落ち着きを与える。またそれは、この世の何ものも破壊することのできない喜び、すなわち聖霊による喜び、健康的なまた生命を与える喜びを心の中に植えつける。」(MH85)

 神の愛には私達を自由にする力があります。これほどの素晴らしい力があるでしょうか?私達にはこの素晴らしい力が準備されています。なぜこの素晴らしい力を自分のものとしないのでしょうか?なぜ遠くから眺めてそれを賞賛しているだけなのでしょうか?なぜそれについて語っているだけなのでしょうか?私達は自分の手でそれをつかみとらなければなりません。そうして真の喜びを経験しなければなりません。世の何ものをも破壊することのできない喜び、聖霊による喜び、健康的な生命を与える喜びを自分のものとしなければなりません。


4.神の愛には許す力がある。


 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」イザヤ53:5

 私達はキリストの十字架を通して神の愛を見ることができます。その愛にはどんな力がありますか?罪を許す力です。キリストはなぜ苦しみを受けましたか?イザヤ書には私達の不義のために砕かれたと書かれています。私達はキリストの十字架によって神の愛には「許しの力」があるということを知ることができます。

 「当然キリストが受けられるべきとり扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべきとり扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とされるように、キリストはご自分のものではなかったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものであるいのちをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。『その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』(イザヤ 53:5 )。」(DA上11)

 この証の言葉を私達は深く理解すべきです。キリストが当然うけられるべき扱いがどのような扱いでありましたか?彼は天使たち、すべての被造物からどんな扱いを当然のものとして受けるべき方ですか?王、神、創造主としての扱いを受けるのが当然ではないですか?その扱いを私達が受けることができるように、われわれが当然受けなければならない扱いをキリストが受けられました。私達が当然受けなければならない扱いとはどのようなものでしたか?罪を犯したものとしての神ののろいです。永遠の死という扱いを受けなければならない者です。それなのにキリストが私達の身代わりとなって下さいました。ここに驚くべき許しの愛があります。

 神の愛には「許しの力」があります。神はその一人子を賜ったほどにこの世を愛して下さったのです。



5.神の愛には永遠に変化しない力がある。


 「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」とあなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:10)

 この世には変化があります。山が動かないようにみえても動きます。以前お互いに信頼し合っていた人間関係も変化します。今日あなたを愛していると言っていた人が、明日はあなたのことを憎みます。私は約束しますと誓った次の瞬間その約束を破ります。全てが変化します。

 しかし、何は変わりませんか?神の愛、神の慈しみは決して変わることがないのです。神の契約は決して動くことがありません。変化が起きる時はいつでも、人間の側に問題があります。契約関係にあってもその契約を破るのはいつもだれですか?私達です。今日服従しますと約束し、私は神を愛していますと言っても、明日にはもう変化しています。

 「境遇は友と別れさせ、広い海の不安な水がその間に波うつかも知れないが、どんな事情も距離も、わたしたちを救い主から離すことができない。どこにいても、キリストはわたしたちの右に立ち、わたしたちをささえ保ち、擁護し、励ましてくださる。ご自分があがなわれた者に対するキリストの愛は、母が子を愛する愛にもまさって大きい。「彼はわがためにその命を与えたまいしにより、われは彼により頼まん」と言って、その御愛に安んずることはわたしたちの特権である。」(MH47)

 これが神の愛です。決して変わることがありません。どんな事情があっても、どんな試練があっても決して変わらない。これほど頼りになるものがあるでしょうか?これほど素晴らしいものがあるでしょうか?私たちは母の愛を知っているかもしれません。母親は自分の子供をどれほど愛しますか?しかし、この愛にまさって大きいのが神の愛です。この愛に安んずることが私達の特権であります。この特権を真の特権として私達の心の中心に置いているでしょうか?


6.神の愛には永遠の接着力がある。

 
 「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:38,39

 私は最近、接着剤で本の修理をしました。本の表紙やカバーが剥がれていたので直しました。接着剤というのは本当に便利なものです。物と物をくっつけ、以前分離していたものを一致させる力というのは、とても価値のある力ではないでしょうか。霊的な意味においても同じです。神の愛には接着剤のように分離したものを再び一致させる力があります。

 「キリストは、ご自分の生涯と死によって、罪のために生じた破滅から回復するよりももっと大きなことをなしとげられた。神と人とを永遠にひき離すことがサタンの目的であった。しかしキリストのうちにあるときに、われわれは堕落しなかった場合よりももっと密接に神につながるようになるのである。救い主は、われわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれることのないきずなでご自分を人類にむすびつけられた。永遠にわたって、キリストはわれわれとつながっておられる。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。」(ヨハネ 3:1 6 )。われわれの罪を負い、われわれのいけにえとして死ぬために、神はみ子をお与えになっただけではない。神はみ子を堕落した人類にお与えになったのである。神は不変の平和のはからいを保証するために、ご自分のひとり子を与えて人類家族の1人とならせ、永遠に人間の性質をみ子のうちに保たせられた。」(DA上11)

 サタンは分離させる力をもって働いています。しかし、キリストという接着剤によって私達は堕落しなかった時よりももっと密接に神につながることができるのです。私達の人間関係においても神の愛の接着剤が必要ではないでしょうか?


7.神の愛には永遠の力がある。


 エレミヤ31:3 「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」

 ここに書かれている「限りなき愛」というみ言葉は、英語では「終わることのない、永遠の愛」という意味です。(everlasting love)神の愛は終りのない、永遠の愛です。世には愛が溢れています。男女が愛について語り合い、テレビのドラマでは愛について放送し、多くの本は愛について書いています。しかし、人間の肉体に終りがあるように、人間の愛にも終りがあります。また変化します。しかし、神の愛はどうですか?永遠の愛です。永遠に続く愛なのです。

 「『わたしは何びとの死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ』(エゼキエル 18 : 3 2 )。悪魔は、この尊い神よりの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてはなりません。試みる者に耳を貸すことなく、イエスは私が生きるために死んで下さったのです。かれは私を愛し、私の滅びるのを好みたまいません。私にはまた愛にあふれたもう天の父があります。私は天の父の愛をなみし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き『わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください』と申さねばなりません。このたとえは、さ迷い出た者がいかに迎えられるかを次のように語っています。『まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいてせっぷんした』( ルカ 1 5 :18−20)。

 「これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかぬ物語ではありますが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。主は預言者を通し、『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた』(エレミヤ 31: 3 )と仰せになりました。罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じておいでになります。そして神へ帰りたいという気持を彼の心に起させるのはみな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さ迷いいでた者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしていたもうのであります。」

 「聖書には、こうしたみ約束がたくさんありますから、疑う余地はどこにもありません。あわれな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのをお拒みになると考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父はそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は、罪を憎みたまいますが罪人をお愛しになります。」(SC68)

 この礼拝の時間は「新たなる力」について学びました。神の愛は「新たなる力」です。神の愛には力が満ち溢れています。これこそ真に価値があるものです。私達がこの力を得るのなら、私達は「霊的力持ち」になることができます。私達の中に一致がもたらされます。家族が心から愛し合うことができます。いまある多くの問題も解決することができます。私達は勝利していくことができます。信仰の翼によって天にまで到達することができるのです。この愛が皆さんに準備されています。私達がそれを信仰の手でつかむのなら、それは私達自身のものになるのです。
キリストは私達に「光を輝かすように努力しなさい」と命令されましたか?・・・・命令されませんでした。「光を輝かしなさい」と命令されたのでした。

 「・・・キリストが心に宿られるならば、その臨在の光を輝かすことは不可能である。もしキリストの弟子であると自称する者が世の光でないなら、それは生きた力が彼らから去ったためである。またもし彼らが与えるべき光をもっていないなら、それは彼らが光の源であるお方と結合していないからである。」(MB50)

 私達の心には生きた力がありますか、無いですか?あるようで無いですか?無いようでありますか?無いようでないですか?私達は自分の心を探らなければなりません。キリストは生きた愛の力です。私達はキリストと結合することによって、神の愛の力を証できるようになります。

 「疑い、わななく人々よ、目を上げて見ようではありませんか。イエスはなお生きて、私どものために執り成しをしておいでになります。神が愛するひとり子をお与えになったことを感謝するとともに、かれの死が無駄にならないように祈りましょう。聖霊はきょう、あなたを招いていたまいます。全心をささげて、イエスのもとに行きましょう。そうすれば主の祝福を自分のものとすることができるのであります。み約束を読むとき、そのみ言葉は言い表すことのできない愛とあわれみの表現であるということを覚えましょう。無限の愛の神のみ心は、はかり知れないあわれみをもって罪人をひきつけていたまいます。
その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」(エペソ1:7 )。そうです。あなたを助けることができるのは、ただ神のみであることを信じて下さい。神はご自身の真のかたちを人間のうちに回復したいと望んでおいでになります。告白と悔い改めによって神に近づくならば、神はあわれみとゆるしをもって私どもに近づきたもうのであります。」(SC72)アーメン


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