「改革の働き」

 今日推進されるべき改革の働きにおいて、エズラやネヘミャのように、
罪の軽減も、言い訳もせず、恐れずに神の栄誉を擁護する人々が必要で
ある。この働きの重責を担う人々は、悪が行われる時に沈黙したり、偽
りの慈善という衣で、罪悪を覆ったりはしないのである。
 彼らは神が公平なかたであることを思い出し、数名を厳格に処罰することは、
多くの人々を救うことを思い出す。そしてまた彼らは、悪を譴責する者
は、常にキリストの精神をあらわすべきであることを忘れないのである。
エズラとネヘミヤはその仕事を行った時に、神の前にへりくだって自
分たちの罪と民の罪を告白し、自分たちが罪を犯した者であるかのよう
に赦しを求めた。彼らは忍耐強く働き、祈り、苦難に耐えた。彼らの働
きを最も困難にしたのは、異教徒のあからさまな敵意ではなくて、友人
を装った者のひそかな反対であった。彼らは悪に加担し、神のしもべた
ちの重荷を10倍も重くしたのである。こうした反逆者たちから、主に
敵対する者たちは、神の民と戦う時に利用する材料を供給されたのであ
る。彼らの邪悪な心と反逆的意志とは、常に神の明白な要求に戦いを挑
んだのであった。
 ネヘミヤの努力が成功したことは、祈りと信仰と、賢明で活発な行動
が何を成し遂げることができるかを示している。ネヘミヤは祭司ではな
かった。彼は預言者でもなかった。彼は大きな称号を求めなかった。彼
は大切な時に立てられた改革者であった。人々を神との正しい関係に引
きもどすことが、彼の目的であった。彼は大きな目的に心を動かされて、
彼の存在の総力をその達成のために費やしたのである。彼の努力は、あ
くまでも清廉潔白なものであった。彼は罪悪と正義に対する反対に当面
したとき断固たる態度をとったので、人々は奮い立って、新しい熱心と
勇気をもって働いたのである。彼らはネヘミヤの忠誠、その愛国心、神
に対する深い愛を認めないわけにはいかなかった。そしてこれを悟った
うえで、彼らは喜んで彼の指導に従った。
 神がお定めになった義務を勤勉に果たすことは、真の宗教の重要な一
部分である。人間は時の情況を、神のみ心を達成する手段として捕らえ
なければならない。適当な時に直ちに決定的行動をとれば、輝かしい勝
利を得ることができるが、遅延と怠慢は失敗に終わり、神のみ栄えを汚
すことになる。もしも真理の運動の指導者が、熱を示さず、無関心で目
標が定まっていないならば、教会は冷淡で怠惰で享楽的になる。しかし
もし彼らが、神のみに仕えるという聖なる決意に満ちているならば、民
は一致して、希望にあふれ、熱心になるのである。
 神の言葉は、明確で著しい対照に満ちている。罪と聖とが併記されて
いるから、それを見てわれわれは、一方を避けて他方を受け入れればよ
いのである。サンバラテとトビヤの憎しみと虚偽と裏切りを描写したペ
ージは、また、エズラとネヘミヤの気高さと献身と自己犠牲をも描写し
ているのである。われわれは自由に、どちらでもまねてよいのである。
神の命令に背いた恐るべき結果が、服従に従う祝福と対照されている。
われわれは一方の罰を受けるか、他方の祝福にあずかるかを、自分で決
定しなければならないのである。
 ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの指導のもとに、帰還した捕囚たちが
行った回復と改革の働きは、この地上歴史の最後の時代に行われるべき、
霊的回復の働きの情景を示している。イスラエルの残りの民は、敵の襲
撃にさらされた弱い民であった。しかし神は、彼らによって、神ご自身
とその律法についての知識を地上に示そうとなさった。彼らは真の礼拝
の擁護者であり、聖なる言葉の保管者であった。彼らは神殿を再建し、
エルサレムの城壁を建設した時に、様々の経験をしたのである。彼らは
強力な反対に当面しなければならなかった。この工事の指導者たちの負
った荷は、実に重かった。しかしこの人々は、神が真理に勝利をお与え
になることを信じつつ、揺るがぬ確信と謙遜な精神と、神に対する固い
信頼をもって前進した。ネヘミヤはヒゼキヤ王のように、「固く主に従っ
て離れることなく、主が・・・・命じられた命令を守った。主が彼と共にお
られた」(列王紀下 18:6、7 )。
 ネヘミヤの時代に推進された働きが象徴していた、霊的回復が、次の
イザヤの言葉の中に示されている。「彼らはいにしえの荒れた所を建てな
おし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たに」する。「あな
たの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を
立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所
となす者』と呼ぶようになる」(イザヤ 61:4、58:12 )。
 広く一般が真理と正義から離反している時に、神の国の基礎である原
則を回復しようとする人々のことを、預言者はここで描写しているので
ある。彼らは神の律法の破れを回復する人々である。すなわち神の律法
は、神が選民を保護するために、彼らの周りに置かれた城壁であって、
その正義、真理、純潔である戒めに従うことが、彼らを永久に保護する
のである。
 預言者は間違えようのない明白な言葉で、城壁を建設するこの残りの
民の、特別な働きを指示している。「『もし安息日にあなたの足をとどめ、
わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖
日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽
しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時あなたは主によ
って喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの
先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う』。これは主の口から語られた
ものである」(同 58:13、14 )。
 終末時代に、神のすべての戒めが回復される。人間が安息日を変更し
た時にできた、律法の破れが回復される。神の残りの民は改革者として
世の前に立ち、神の律法がすべての永続的改革の基礎であって、第4条
安息日は創造の記念であり、常に神の力を思い起こさせるものである
ことを、示さなければならない。彼らは明白な言葉で、十誡のすべての戒
めに服従する必要を示さなければならない。彼らはキリストの愛に動か
されて、キリストと共に力を合わせて、荒れすたれた所を復興しなけれ
ばならない。彼らは、破れを繕う者、市街を繕って住むべき所となす者、
とならなければならないのである(イザヤ 58:12参照)。
―国と指導者57章


にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村