第一編第1章 「理論ではなく経験が要求される」 


第一章 「理論ではなく経験が要求される」

まえがき 
                 

 ウイリアム・ミラーが第一天使の使命を宣べ伝え始めてから間もなく約180年もの年が過ぎ去ろうとしています。

 彼の伝えた再臨使命を引き継いだSDAの先駆者たちは大きな苦難と激しい戦いによって三天使の使命の真理を得るに至りました。そして完全な真理の土台を神の恵みによって据えたのでした。

 彼らはイエス・キリストが自分たちの生きている時代に来られることを待望していました。しかし時は過ぎ去り、彼らは眠りについてしまいました。現代の再臨信徒たちはイエス・キリストを生きたままお迎えする準備ができているでしょうか。霊的な状態はどうでしょうか。先駆者たちが持っていた、燃えるような信仰を持っているでしょうか。「今イエス・キリストが再臨されたら困る」というつぶやきが主を待ち望むと公言する人々の中から聞こえてこないでしょうか。日毎に世俗化していないでしょうか。「教会は倒れそうでも倒れない」という約束をその条件も考えずに信じていないでしょうか。

 神は再臨信徒たちに「特別な使命」、いわゆるこの地上歴史の最終時代の人々の運命を決定する厳粛な使命を与えられたのではなかったのでしょうか。それなのにこの民は三天使の使命を経験していないだけでなく、その使命が何かさえ知らずにいるということはないでしょうか。
 
 三天使の使命はイエス・キリストを迎えるために人類を準備させるための重要な使命であります。神の僕は次のように警告しています。

 「天使は言った。『この使命をすこしでも変える者はわざわいだ。この使命を本当に理解することが非常に大切だ。魂の運命は、この使命をどう受け入れるかにかかっている。』」初代文集420ページ

 この読み物には、もしイエスと共に天に上げられ、永遠の幸福を得たいと望む再臨信徒なら、必ず経験しなければならない重要なメッセージが書かれています。

 イエス・キリストは確かに間もなく来られます。時はわずかしか残されていません。あなたも三天使の使命を経験して聖なる人々と共に永遠の家郷に住む者となることを心からお祈りいたします。編者



第1章 理論ではなく経験が要求される



 「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。」黙示録14:6〜7

 主の再臨を待ち望むSDAの信徒ならば、三天使の使命を知らない人はいない。しかしその使命の重要性と貴重性に対して当然悟らなければならないほどの厳肅さを悟っている人はあまり多くいない。

 「わたしは、第一、第二、第三の天使による三段階の使命を示された。わたしにつきそっていた天使は言った。『この使命をすこしでも変える者はわざわいだ。この使命を本当に理解することが非常に大切だ。魂の運命は、この使命をどう受け入れるかにかかっている』。わたしはふたたび三重の使命を示され、神の民がどんなに高い代価を払ってその経験を得たかを示された。それは、多大な苦難と激しい戦いを経て得られたものだった。神は、彼らを一歩一歩みちびいて、ついに彼らを動くことのない固い土台の上に置かれたのである。」初代文集420〜421ページ
 
 主の僕は「この使命を本当に理解することが大切だ。魂の運命は、この使命をどう受け入れるかにかかっている」と言った。このように重要で魂の運命のかかっている三天使の使命に対して、どれほどの再臨信徒たちがこの重要性と厳肅さを悟っているのであろうか。また、当然悟るべき価値を認識しているのであろうか。再臨信徒であるなら、このことを振り返って考えてみなければならない。なぜならこの使命を正しく理解することができないなら、救いを失ってしまうかもしれないからである。すべての魂の運命がこの使命をどう受け入れるかにかかっているというみ言葉を見過してはならない。
 
 「運命がかかった使命」というのは、生と死を決定する場合に使う言葉であるから、実に三天使の使命こそ、厳肅で驚くべき使命であるということがここで説明されている。預言者は次のように記録している。
 
 「多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所に入ったのである。わたしは、これらのメッセージが、神の民の錨であることを示された。それらを理解して信じた人々は、サタンの多くの欺瞞に押し流されないように守られるのである。」初代文集417ページ
 
 三天使の使命は完全な真理であり、順序に従って受けいれ、イエスに導かれて天の聖所に入るようにする使命である。この
ような経験をした魂たちには三天使の使命は錨になって、幾多のサタンの試験にも揺らぐことのない信仰の生涯が可能になるのである。完全な真理はその真理を信じる者たちを完全にするのである。
 
 「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。…また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。」ヨハネ17:17〜18




完全な真理
 

                    
 
 三天使の使命は完全な真理である。だからこの真理は信じる者たちに完全を与え、清めを得るようにする。「真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)。

 真理は信じる者たちにどんな自由を与えるのだろうか?聖書には次のように書いてある。「罪を犯す者は、悪魔から出た者である」(ヨハネ第一3:8)。「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕…ともなるのである」(ローマ6:16)。

 すべての人は罪を犯したので悪魔の僕となった。「あなたがたは罪の僕であったが、・・・」(ローマ6:17)。あなたは罪の僕という立場から解放され、自由を享受することを願うであろうか?完全な真理があなたに真の自由を与えるのである。そして罪を犯す事からの解放の喜びを経験させてくれるのである。このような人々こそ、真の自由を享受し、義の経験の中で生きて行く者たちであって、何が真理であるかを理解する者たちなのである。

神の再臨を待つ兄弟姉妹たちよ、三天使の使命は「完全な真理」であることを覚えよう。この完全な真理こそが、私たちに罪からの自由を享受させてくれるのである。もしまだこの経験をしていないのなら、三天使の使命を悟ることができていないのであり、完全な真理によって与えられる自由を享受していないのである。

 「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」黙示録3:15〜16

 なぜこのような譴責が私たちに必要なのだろうか?それは完全な真理である三天使の使命を信じていると言いながら、その使命にふさわしい生活をしていないからである。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と神は命令されている。

 完全な真理は信じる者たちに完全な生涯を得させる力を持っている。神のみ言葉は霊であり命であって、神秘的な力がその中に働いている。私たちは果してこの完全な真理を所有しているであろうか?私たちは真に三天使の使命者たちだと言えるだろうか?サタンは完全な真理の力を体験しなかった魂たちを絶えず惑わそうとするので、彼らはまるで錨が切れた船のように漂うようになってしまうのである。



理論ではなく、経験が要求される使命 


           
 「第三天使のメッセージを受け入れた人々の多くは、前の二つのメッセージの経験を持っていなかった。サタンは、これを知っていて、その邪悪な目を光らせて、彼らを陥れようとした。しかし、第三の天使は、彼らを至聖所に導いた。そして、過去のメッセージの経験を経た人々も、彼らを天の聖所へと指さしていた。」初代文集417ページ

 三天使の使命は単純に理解すれば済むようなものではなく、経験しなければならない使命である。この使命は理論ではなく、体験である。重要なことは第三天使の使命を受け入れた者たちの中に、第一と第二天使の使命を経験していない人々がいるという事実である。

 多くの再臨信者たちが罪からの自由を経験できず、なまぬるい状態になっている。その理由は、第一、第二天使の使命の経験がないからである。もしこの経験があるなら、これらの使命が魂の錨となって多くのサタンの誘惑に惑わされず、保護されたはずなのである。

 「多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所に入ったのである。わたしは、これらのメッセージが、神の民の錨であることを示された。それらを理解して信じた人々は、サタンの多くの欺瞞に押し流されないように守られるのである。」初代文集417ページ

 だから私たちは必ず第一、第二天使の使命を経験しなければならない。

 「第一天使の使命と第二天使の使命の経験がない人々は、それらを経験し、それに最後まで従っていった他の人々から、それらを受けなければならない。」初代文集319ページ

 「『魂の運命は、この使命をどう受け入れるかにかかっている』。わたしはふたたび三重の使命を示され、神の民がどんなに高い代価を払ってその経験を得たかを示された。」初代文集420〜421ページ



第一天使の使命とその経験 

                

 第一天使と第二天使は1833〜1844年までの、再臨信徒たちの経験であり、今から約170年前の歴史である。現代、どのようにして170年も前に起きた事件を経験することができるのか?といぶかるかもしれないが、キリストが贖罪の働きを終えられるまで、この天使たちは空中を飛ぶのである。だから今日生きている私たちも必ず経験しなければならない使命なのである。

 1844年当時の再臨信徒たちがどのような経験をしたのかということを研究するのは、とても興味深く、魂の運命を決定するほど重要な主題である。
 天国よりはこの世により多くの愛着を持って生きていた当時の名目的なクリスチャンたちにとっては、キリストが1844年3月22日に再臨なさるというウイリアム・ミラーの使命は喜びとはならなかった。しかし真にキリストを愛し、天を慕いつつ生きる者たちにとっては、これ以上の福音はなかったことであろう。

 キリストがこの地へおいでになるという再臨使命は、アメリカ全域と全世界に伝えられた。この使命は力を持って伝えられ、誰もこの使命の前進を止めることができなかった。

 1844年3月22日が近づくにしたがって、この使命を信じる者たちに驚くべき変化が起きた。彼らはどんな変化と、体験をしたのであろうか?主の預言者は当時の彼らの経験を次のように記録している。

 「そのメッセージは、どこであっても、人々の心を動かした。罪人は悔い改め、涙を流して、罪の許しを祈り求めた。そして、不正直な生活を送っていた人々は、なんとかして償いをしようとした。親たちは、子供たちのことを深く憂えた。」初代文集383〜384ページ

 「罪人は、泣いて、『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』とたずねた。不正直であった者は、なんとかして賠償しようとした。キリストのうちに平和を見いだした者はみな、その祝福を人々に分かちたいと願った。親の心は子に向けられ、子の心は親に向けられた。誇りと疎遠の壁は払いのけられた。心からの告白がなされ、家族の者たちは、最も近く最も愛する者の救いのために働いた。熱心なとりなしの祈りの声が、しばしば聞かれた。どこでも、苦悩にあえぐ魂が、神に嘆願していた。自分自身の罪の許しの確証を得るために、あるいは親族や隣人の改心のために、一晩中熱心に祈る者も多かった。」各時代の大争闘下巻67ページ

 「まじめな信者たちは、あたかも死の床にあって、あと数時間で地上に別れを告げるかのように、心の思いと感情を注意深く吟味した。だれも『昇天衣』など作らなかった。しかし、すべての者は、救い主を迎える準備ができたという内的証拠の必要を感じた。彼らの白衣は、魂のきよめ、キリストの贖罪の血によって罪からきよめられた品性であった。」各時代の大争闘下巻72ページ

 彼らの経験はどんな経験であったのだろうか?愛する神を迎えるために彼らは自分の心を潔白にする必要があった。彼らは徹底的に自分の心を探り、悔い改め、心の純潔のために出来ることはすべてやり尽くしたのである。

 キリストの再臨を待望している再臨信徒たちの皆様!私たちの心は純潔であろうか?私たちの記憶の中に罪を見出すことはないであろうか?もしかしたら、今までの生涯で不正や罪などが見出されないであろうか?隣人たちとの取引関係において汚点はないであろうか?

 もし心の中に悔い改めていない罪悪が発見されるなら、まだ第一天使の使命を経験できていないという証拠である。たとえ第三天使の使命を受け入れ、バプテスマを受けて数十年経っていようとも、真の意味においてまだ第一天使の使命を受け入れた者とは言えないのである。

 今日の再臨信徒たちの多くが、第一天使の使命の表面的、理論的な知識を知ることだけで満足している。この第一、第二天使の使命は経験を要求しているのである。このような天使の経験がない結果は何か?「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」という宣告なのである。 今日も空中を飛んでいる第一天使たちは、二度と悔いることのない悔い改めの経験を要求している。

 「第三天使のメッセージを受け入れた人々の多くは、前の二つのメッセージの経験を持っていなかった。サタンは、これを知っていて、その邪悪な目を光らせて、彼らを陥れようとした。」初代文集417ページ

 第一天使の経験がない魂たちは、サタンの攻撃の的となり、罪との戦いにおいて勝利するのが不可能になるであろう。あなたは第一天使の経験をしているのかどうか、自分を吟味してみなければならない。



第一天使の使命は新生の使命  

              

 第一天使の使命は真の新生を経験するように導く使命である。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。多くのクリスチャンたちがニコデモのように真の新生の経験なしに教会に通っている。真の義認の経験がないのに、義人のふりをしながら生きていく多くのクリスチャンたちがいる。罪を捨てていないのに、安息日を守り、什一を捧げ、良い働きに賛同し、肉食を禁止しながら・・・、義人のまねをするクリスチャンたちが多くいる。

 猿が人のまねをして、人間のように生活すれば、人間になるであろうか?否、人として生まれなければ、人間ではない。それと同じように、水と聖霊で生まれ変わらないのなら、いくら長い間信仰生活をして教会に通ったとしても、いまだに罪人なのである。預言者は次のよう記録している。

 「新生は、この時代にめったに見られない経験である。これが、教会の中に余りにも多くの困難が存在する理由である。キリストの名を帯びている非常に多くの人が、清められておらず、汚れている。彼らはバプテスマを受けたが、生きたまま葬られたのである。自我が死んでおらず、それ故に、彼らはキリストにある命に新たによみがえっていない(MS148,1897年)。」―バイブル・コメンタリー・ローマ6:1〜4

 「バプテスマは最も厳粛な世俗の放棄である。告白によって自己は罪に対して死ぬ。水が志願者を覆い、全宇宙の見守る中で相互の誓いがなされる。父と子と聖霊の名によって、人は水の墓に横たわり、バプテスマによってキリストと共に葬られ、神に対して忠実な新しい命に生きるために、水からよみがえる。」―バイブル・コメンタリー・ローマ6:1〜4

 第一天使の使命を経験せず、徹底的な悔い改めと罪の生活の放棄がなされていないのなら、新しく生まれたのではなく、いまだ罪人のままなのである。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われてしまうのである。なぜなら、罪と義は、光と闇のように共存できないからである。罪のパン種を持ち続けながらいつか新生するだろうと待っているのは、乾いた粉にパン種を入れずに膨らむのを待っていることと同じである。

 再臨信徒たちよ!第一天使の使命を経験することによって、真の新生を経験しなければならない。徹底的な悔い改めの経験なしに、罪のパン種を持ちながら安息日を守り、義人のふりをして救われることを期待するのなら、それは行いによって救いを得ようとするのと同じことである。信仰による義は罪を覆う仮面ではない。



10年後にキリストが来られるという使命  


        

 ウイリアム・ミラーが第一天使の使命を伝えた時期は、1833年、彼が属していたバプテスト教会から説教ができる資格を受けた時を起算点とする。1833年以前から第一天使の使命は伝えられたが、それはミラーの個人的な努力と働きによってであった。1833年からはその使命が教会的な働き、公の使命として大きく叫ばれるようになったのである。

 ウイリアム・ミラーを通して第一天使の使命が伝えられた時、キリストのご再臨は10年後に迫っていると信じられた。10年しか残っていない世にどのような望みと希望を持つことができるのであろうか。この使命を心から信じる人々にとっては、生涯の計画と目的、また動機が変化していった。

 世を愛する心は彼らの心の中で影をひそめるようになった。なぜならあと10年で世の中が終るからであった。彼らの心には財産や権威に対する欲望は消え去っていた。快楽も彼らには魅力とはならず、世的名誉も重要ではなくなった。

 彼らの唯一の関心事は、その日にイエスにお会いする事であった。すべての働きや計画は主にお会いするために立てられ、キリストにお会いして天に上げられるために準備することが人生の目的であった。

 再臨信徒たちよ!第一天使の使命というのは、「10年後にはキリストが再臨なさる」という使命である。世の中が後10年しか残っていないという信仰の姿勢が、まさに第一天使の使命を悟る魂たちが持つべき信仰である。10年しか残っていない世の中に何の未練を持つのであろうか?であるから、まだ世の中に未練を持っている人々は、第一天使の使命を受け入れていないということである。物質と名誉と権威を得るために世の中と妥協している魂たちは、まだ第一天使の使命を悟ることができていないのである。

 再臨信徒たちよ!今もこの天使は空中を飛んでいる。彼らの経験が私たちの経験となるべきである。

 「世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」ヤコブ4:4

 「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」ヨハネ第一2:15

 あなたがまだ世を愛し、世に未練があるのなら、第一天使の使命を受け入れ、経験したとは言えない。まだ、イエスに会う準備ができていないのである。




厳粛な譴責を受け入れよう
  

               

 「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」黙示録3:19〜20

 どうして神が戸の外に立っておられるのだろうか?どうして私たちの心に入って来られないで、戸の外に立って叩いておられるのだろうか?

 私たちはこのように祈ったかもしれない。「主よ、お入りください。歓迎いたします。私は主とともに食べて飲むことを願います。」・・・このように祈ってから、かなりの時が経過した。それなのに、主は今も戸の外に立っておられる。なぜだろうか?

 主が私たちの心に入って来ることがおできにならない理由を知る事は非常に重要な事である。主が戸の外に立っておられるという事実は、結果的に救いを失ってしまうかもしれないということを意味している。熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいということは、キリストがおられず、吐き出されてしまうかもしれない状態である。しかし、キリストが私たちの心の門を叩いておられるという事実は、まだ私たちに希望があるという証拠である。しかし、「主はいつまでも私達を待っておられるのではない」という事実を覚えていなければならない。主が戸の外に立っておられるという状態は、救いを受けることができない状態であるという事実を悟る必要がある。これは救いを得るのが難しいというような状態ではなく、非常に深刻な状態を意味する。公然と神を信じない罪人より、もっと希望がない状態である。であるから、ラオデキヤ教会の真の証人は「冷たいか、熱いかであってほしい」と言ったのである。
 
 公然と罪を犯す人たちは、自分が罪人であるという事実を認めているので、悔い改める可能性がある。しかし生ぬるい状態にある者たちは、他の人々と自分を比べて、大きな不足を感じず、自分が罪人であるという事実さえ認めようとしない。彼らは「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」とその生活において語っている。悔い改めの必要性を全く感じず、自分が罪人であるという事実を悟ることができない人々は、この世で最も救いを得にくい人々である。これこそ、サタンの最も恐ろしい欺瞞である。今日、ラオデキヤ教会は行動において次のように語っている。

 「世の中の致命的な昏睡状態はあなた方の感覚を麻痺させている。サタンによって盲目になっているので、罪が不快に思えないのである。神は将来、地上に審判を下そうとしておられる。

 『のがれて、自分の命を救いなさい』(創世記19:17)という言葉は、神の天使たちの警告である。しかし他の声も聞こえる。『興奮するな、特に驚く理由はない。』天は罪を犯した者に、迅速な滅亡がまもなく臨もうとしていることを宣布しているのに、シオン(教会)で気楽にしている者たちは『平和だ、無事だ』と叫ぶ。若者たち、軽薄な者たち、快楽を愛する者たちがこの警告をつまらない話だと思い、嘲りながらそっぽを向く。」5T233ページ

 「かつて第三天使の使命を宣布することに熱心だった多くの者が現在、無関心で冷淡になっているとは、なんと恐るべき事実なのだろう。多くの自称クリスチャンと、世の人々との間の境界線はほとんどない。以前、熱心だった多くの再臨信徒たちは、世の習慣、風習、利己心に従っている。世を神の律法に導く代わりに、教会はより密接に世の罪に結びついている。教会は日ごとに世俗化している。どれほど多くのクリスチャンと公言する人々が財産の奴隷となっていることか!彼らの食欲の放縦、自己満足のためのとてつもない金銭の支出は神のみ名を大いに辱めている。」8T118ページ

 「神の明確なみ旨に反して罪を犯しているのに、自分は真理を持ち、確実な基礎の上に立っているし、神の働きに活動的に参加しているので、神は受け入れてくださると考えることほど、人間の心を欺くことがどこにあるだろうか?彼らはまるで機械のように動く。しかし心の準備、品性の聖化が足りない。神聖で聖なる事が平凡な水準にまで落ち、世俗と 軽薄さが私たちの教会の中に働いている。礼拝は形式的になり、堕落している。標準を高めなければならない。もっと次元を高くして、行動しなければならない。世の中の習慣と行動から離れなければならない。牧師たちと民はもっと高い標準に立たなければならない。」牧師への証451ページ

 「天の教師はこのように質問された。『あなた方は、実際には、多くの事を世俗の方針に従ってなし、エホバに対して罪を犯しているのに、正しい基礎の下に建てていると偽っている。これ以上に心を欺くことのできる欺瞞があるだろうか。真理の知識を持っている人々が、自らの敬虔の行為を霊と力によるものだと誤解し、貧しいのに、富んでいる、豊かになったという思いに心が捕らわれることほど、大きな欺瞞、魅惑的な惑わしはない。』衣を汚すことのないように守っている神の忠実な僕たちに対して、神は変わられることはなかった。しかし滅亡が近づいているのに、彼らは『平和だ、無事だ』と叫んでいる。心を謙遜にし、決定的な悔い改めと、罪の告白をして、イエスのうちにある真理を受け入れなければ、彼らは決して天に入ることはできない。」8T249〜250ページ

 第一天使の使命の最も大きな目的は、魂たちを悔い改めさせることである。再臨信徒たちよ、このような断固とした厳粛な譴責を謙遜な心で受け入れよう。私たちの希望は「熱心になって悔い改めなさい」と言うラオデキヤ教会の真の証人の勧告を受け入れることにかかっている。第一天使は今も天を飛んでいる。
 
心からの深い悔い改めと、屈服がなければ、私達は捨てられてしまうであろう。                         ・・・・2章に続く。