「信仰とは何か?」


 マタイ17:20「するとイエスは言われた、『あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかってここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」


 今日皆さんと共に恵みを受けたい主題は信仰についてです。私達クリスチャンは、信仰についてたびたび聞き、また学んでいます。しかし、私達は本当にこの信仰をもち、信仰を働かせているでしょうか?

 イエス様は言われました。もし、からし種ほどの小さな信仰があれば、山を移すことさえできるであろうと。からし種は本当にふけば飛ぶような小さなものです。そのような小さな信仰でさえ、私達が持っているとすれば、山のような大きなものでさえ、動かすことができるといわれるのです。

 第二コリント13;5「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。」

 私達は自分に信仰があるかどうか、信仰を働かせているかどうかを良く考えてみなければなりません。

 もし、この信仰に対して正しい観念を持っていないと、自分が信仰を正しく働かせていないのに、働かせていると思い込んでしまうかもしれません。もしそのようにするのなら、間違った道を歩んでしまいます。

 ですから、私達は真の信仰とは何かを良く知る必要があります。ある人々は自分の考えを捨てようとしないで、自分自身の考えに対して信仰を働かせることがあります。

 神が求めておられ、神が与えてくださる信仰とは、キリストに対する信仰なのです。自分自身にたいする信仰ではありません。自分にはなにもないということを自覚しなければなりません。なにもないどころか、病気であることを自覚しなければならないのです。心の貧しい人は幸いである。心の貧しい人とは、自分の病気、罪を自覚する人です。


 黙示録3;20「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

 イエス様が私達の戸の外に立って叩いています。しかし、ある人々はどうしてもその戸を開けることができないままでいます。なぜですか?戸の前にいろいろながらくた、ごみがつみあけているからです。これらはまるで動くことが不可能な山のようにみえます。それを動かそうとして、何度も失敗します。そうして「私の生まれつきの性格なのだから仕方がない」と言います。そうでしょうか?本当に仕方がないのでしょうか。もし、そうならこの世に生まれた人は、だれ一人として、天国に入れることはないのです。イエス様は言います。「もし、からしだねほどの小さな信仰があるのなら、その山は動く」と。その小さなからしだねほどの信仰が皆さん欲しくないですか?ふけばとぶような小さな種が欲しくないでしょうか?

 「『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう」とイエスは言われた(マタイ 17: 2 0 )。からし種の粒は小さなものであるが、その中には最も高い木を成長させるのと同じ神秘な生命の原則が含まれている。からし種が地にまかれると、その小さな芽は神がその栄養としてお与えになったあらゆる要素をとらえてたちまちたくましい成長をはじめる。もしこのような信仰があれば、あなたは神のみことばと、神がお定めになったあらゆる有益な方法をとらえる。こうしてあなたの信仰は強められ、天の力があなたの助けとして与えられる。サタンがあなたの道に積みあげた邪魔物は、永遠の山のように乗り越えることができないようにみえても、それは信仰の要求の前には消えうせてしまう。『あなたがたにできない事は、何もないであろう』(マタイ 17:20 )。」DA47章


 私達はこの信仰について考えてみる時、ヘブル11章の御言を思い出します。そこにはどのように書いてありますか?

 「信仰とは望んでいることがらを確信し、まだみていない事実を確認することである。・・・・」と書いてあります。

 「信仰とは神に信頼すること、すなわち神がわれわれを愛し、われわれの幸福にとって最善であるものをご存知であることを信じることである。そのときわれわれは自分自身の道を選ばず、神の道を選ぶようになる。信仰によってわれわれは、無知の代わりに神の知恵を受け入れ、弱さの代わりに神の力を、罪の代わりに神の義を受け入れる。われわれの生命、われわれ自身がすでに神のものである。信仰は神の所有権をみとめ、その祝福を受け入れる。真実と誠実と純潔は人生の成功の秘訣としてさし示されている。これらの原則をわれわれに所有させるのが信仰である。」教育

 ここに書いてあることは非常に重要なことです。信仰とはなんですか?神に信頼すること。この信仰を働かせるのなら、私達は自分自身の道、すなわち自分の目によいと見えることを行うのではなく、神がみてよいと思われる道を選ぶのです。信仰とは神の所有権を認めることです。神の所有権がどこにありますか?私達自身です。私達の体、私達の頭脳、私達の前頭葉、また私達のすべての所有物です。私達が真のクリスチャとなる秘訣はすべて示されています。これらの原則を自分のものとするのが信仰です。それは実際的に服従して体験することによって証されるものです。信仰を働かせているといいながら、服従がないのは偽の信仰です。服従という行為は救いを得ることはできないけれど、真の信仰の実であります。

 「どのように信仰を働かせるべきかということを明らかにしなければならない。」何を明らかにしなければなりませんか?どのように信仰をはたらかせるべきか?重要なことです。
 「神の御約束にはすべて条件がある。われわれが神のみこころをよろこんで行なうとき、神のすべての力はわれわれのものである。神が約束してくださった賜物はすべての約束自体の中に含まれている。『種は神の言である』とある。かしの木がどんぐりの実の中に含まれているのと同じように神の賜物もその御約束の中に確実に含まれている。約束を受けるときに、賜物はわれわれの手中にある。神の賜物を受け入れることのできる信仰は、それ自体が賜物であり、それはすべての人に幾分か与えられている。神のみ言葉をわがものとするために信仰を働かせるときに信仰は成長する。信仰を強めるためには、神のみ言葉にたびたび接触しなければならない。」

 ここには驚くべきことが書いてあります。私達はこの証を簡単に読んで聞き流してはいけません。信仰は賜物であると書いてあります。私達皆も、からしだねをもっているのです。ではなぜ山が動かないですか?なぜ品性がいつまでも変らないですか?なぜいつまでも人を憎みますか?なぜいつまでも悪口ばかりいいますか?なぜ、世に対しての愛着を捨てられませんか?

 「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」ヘブル11:5

 エノクは信仰の人として私達に模範を残しています。彼はどのように信仰をもって歩んだのでしょうか?彼の住んでいた時代は洪水前で、世の人々はひどく堕落していました。しかし、彼はその中にあっても、信仰をもって、神と共に歩んだのでした。彼は神との密接な交わりを求めました。そうして信仰によって神と歩んだのでした。

 「エノクは神と共に歩んだ」創世記5;24

 彼も私達と同じ罪深い人間の弱さを生まれながらに持っていました。彼も心に山をもっていました。しかし、信仰によってその山は移され、彼は生きたまま天に移されました。

 私達も生きたまま天に上がられる者として彼と同じ標準に達しなければならないのです。彼の取った方法は、現実的に私達も取ることのできる方法なのです。その方法、その秘訣とは何なのでしょうか?それは今読んだ聖句の中に書かれています。

 創世記5;24には何と書いてありあましたか?彼は「神と共に歩んだ」と書いてありました。「神と共に歩む」とはどういうことなのでしょうか?なぜここに「神と共にいた」とか、「神と共に住んだ」とか書いてないで、『神と共に歩んだ』と書いてあるのでしょうか?

 ここに私達が学ぶべき教訓があります。歩くとは実際的な行為を意味しています。それは継続的、実際的な働きを意味しているのです。彼は朝、起きた時から寝るときまで、その一瞬一瞬を信仰によって歩み続けたのでした。これは、彼だからできたのではなく、私達もできるし、しなければならない方法なのです。私達は安息日だけでなく、礼拝の時間だけでなく、毎日、毎時間、信仰を働かせて、神と共に歩むことができるのです。

 私は、時々裏山を登ります。ゆっくりあるいても30分ぐらいですが、時々学校の生徒を連れて登りますと、ある生徒はサンダルをはいたまま登ります。私は、サンダルをはいたまま登りません。なぜかというと登りにくいからです。石もごろごろしていますし、サンダルだと怪我をすることがあるかもしれません。

 30分くらいで到着するようなコースなら別にサンダルを履いたまま登ることもできるかもしれません。しかし、何時間もかかる高い山を登るにはどうですか?サンダルのまま何も持たずに登る人はいないと思います。しっかりした、疲れにくい靴も必要ですし、ステッキも必用ですし、水も必要です。そうして一歩一歩登っていくのです。

 信仰の歩みも同じではないでしょうか?私達がのぼるべき山は高い山です。肉の目では頂上が見えない山です。私達はイエス様と共に上に向かって一歩一歩登っていかなければなりません。

 山登りに皆さんは何をもっていきますか?おいしいお弁当をもっていくはずです。霊的な山登りもお弁当が必要です。それは御言です。聖書はどの道を歩むかを示してくれる地図でもあります。この地図に示されている道を歩くのなら、必ず頂上に到着できるという約束が書かれています。

 また、その他に何を持っていきますか?水です。山を登るにつれ厳しい坂があり、息が荒くなってきます。そのような時、深呼吸をして息を整え、水を飲む必要があります。霊的な山登りにも忘れてはならないのが、祈りです。私達は祈りを通して魂に生きた水を得ることができます。また祈りは魂の呼吸といわれています。
 
 「彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。」マタイ17:8

 弟子たちがイエス様と共に生活したのは、決して長い年ではありませんでしたが、彼等の人生の歩みはイエス様のほかにはだれも見えないものとなったのでした。彼等のほとんどは殉教していきました。世的にいえば、非情に苦しい、悲惨な生涯でした。いつも敵が自分の命を狙い、人にさげすまれ、ばかにされ、苦しめられました。しかし、何故彼等がそのようなことに耐えられたかというと、彼等はイエス様のほかにはだれも見えなくなっていたからでした。

 「弟子たちがキリストの変貌を目撃した時、その驚くべき光景の最後に『彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった』と書かれている(マタイ 17:8)。「イエスのほかには」という言葉には、初代教会の歴史を特徴づけたいのちと力の秘訣ひけつが包含されている。弟子たちは最初、キリストのみことばを聞いた時、自分たちには主が必要だと思った。彼らは主を求めて、見いだし、そして、主に従った。彼らは、宮で、食卓で、山腹で、また野で、主と共にいた。彼らは1人の師を持つ弟子たちとして、毎日主から永遠の真理について教えを受けた。救い主の昇天後も、なお、弟子たちには愛と光に満ちた神の臨在感があった。それは人格を備えたお方の存在であった。」AA6章

 ステパノが殉教する時、彼の目には何が見えましたか?
 「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った。」使徒行伝7:55,56

 彼もイエスのほかはだれも見えなくなっていた人でした。言い換えるなら、イエスと共に歩み続けた者でした。彼の血によって、誰が導かれましたか?

 「ステパノの殉教を目撃した人たちはみな深い感動をおぼえた。彼の顔に押された神の印の記憶と、聞いた人々の心を動かした彼の言葉は、目撃者の心にいつまでも残って、彼が宣べ伝えていた真理のあかしとなった。彼の死は教会にとって苦しい試練であったが、サウロが導かれたのはこのおかげであった。サウロは殉教者ステパノの信仰と忠誠、その顔にやどった栄光をどうしても記憶から消すことができなかった。」AA10章

 このパウロもイエス様のことだけしか見えなくなってしまった弟子の一人でした。パウロは殺されるとき、ひそかに処刑の場に連れて行かれました。見物人はほとんどだれもその場に出ることを許されなかったのです。それは、彼の死の光景が人々をキリスト教に改宗させるのではないかと恐れられたからです。

 「使徒パウロは、不安と恐れを抱いてではなく、喜ばしい望みとあこがれの期待を持って、大いなるかなたをながめた。殉教の場に立っている彼には、執行人の刀も、間もなく自分の血を受けようとしている大地も目に入らない。彼は、夏の日の静かな青い空を見上げ、そのかなたの永遠の神のみ座を仰ぐ。」AA50章

 皆さんも静かな夏の日、青い空を見上げて、パウロの最後の時を考えてみてください。彼もエノクやモーセやステパノや他の聖者たちと同じように、イエス様だけしか見えなくなっていたのでした。

 彼の最後の想いは、よみがえるときの最初の想いと同じです。それはどんな想いですか?主にお会いすること。主と顔と顔を合わせることです。
 
 私達も信仰を働かせるのなら、イエス様だけしか見えなくなってしまいます。この経験がイエスと共に生きるということです。この経験がイエスと生きたつながりを持つということです。この経験のために必要なものはすべて準備されています。問題はあなたがこれを使うかどうかです。

 皆さんの信仰の歩みはどれくらい登ったでしょうか?もし、疲れを感じたのなら、深く呼吸しましょう。また命の水を飲みましょう。イエス様と結んでいる信仰の手をもう一度しっかりとむすびなおしましょう。そうしてしっかりと、一歩一歩、イエス様だけを見て、イエス様と共に信仰の歩みを続けましょう。もうすぐ頂上が見えてきます。イエス様は間もなくおいでになられます。

 皆さんに主の豊な恵みがございますよう、お祈りいたします。



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