「よい羊飼い」

 この世の羊飼が自分の羊を知っているように、天の羊飼イエスは、世
界じゅうにちらばっているご自分の羊の群れを知っておられる。「あなた
がたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、
主なる神は言われる」。イエスは「わたしはあなたの名を呼んだ、あなた
はわたしのものだ」。「わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」と
言われる(エゼキエル 34:31、イザヤ 43:1、49:16 )。
 イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じ
て心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イ
エスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいる1人1人の
名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこ
そこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の1匹をさ
がしなさいと命じられた。
 1人1人は、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのよう
に、よくイエスに知られている。1人1人の悲嘆はイエスの心を動かす。
助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人をみもと
に引きよせるためにおいでになった。イエスは彼らに、「わたしに従って
きなさい」とお命じになる。するとみたまが彼らの心に働いて、彼らが
みもとにくるように引きよせる。多くの者は引きよせられるのをこばむ。
エスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の
呼び声をよろこんで聞いて、羊飼であられるイエスの守りに身をゆだね
ようとする者をご存知である。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わ
たしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」とイエスは言わ
れる(ヨハネ 10:2 7 )。イエスは、この地上にほかにだれもいないか
のように、1人1人を気づかわれる。
 「彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。・・・・・・羊はその声を知ってい
るので、彼について行くのである」(ヨハネ 10:3、4 )。東方の羊飼
は羊を追いたてない。彼は、暴力や恐怖心に訴えないで、自分が先に行
って羊たちを呼ぶ。羊たちは、彼の声を知っているので、その呼び声に
従う。救い主であられる牧者イエスも、これと同じように、ご自分の羊
をとり扱われる。聖書に、「あなたは、その民をモーセとアロンの手によって
羊の群れのように導かれた」といわれている(詩篇 77:2 0 )。預言者
を通して、イエスは、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」と宣言してお
られる(注・英語訳には、「それゆえ、わたしはやさしく親切にあなたを
引きよせた」 となっている。エレミヤ 31:3)。イエスは、わたしに
従いなさいと、だれにも強制されない。「わたしはあわれみの綱、すなわ
ち愛のひもで彼らを導いた」と、イエスは言われる(ホセア 11: 4 )。
 弟子たちがキリストに従うのは、罰を恐れるとか、永遠の報いを望む
からではない。彼らは、ベツレヘムの馬ぶねからカルバリーの十字架に
いたるまで、この地上における旅路を通じてあらわされた救い主の比類
のない愛を見る。そのキリストのお姿が彼らをひきつけ、魂をやわらげ、
征服するのである。イエスを仰ぎ見る者の心のうちに愛がめざめる。彼
らはみ声を聞き、イエスに従うのである。
 羊飼が羊たちの前に行って、自分がまず道中の危険に遭遇するように、
エスもまたご自分の民に対して同じようになさる。「自分の羊をみな出
してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く」(ヨハネ 10:4 )。天への
道は、救い主のみ足跡によってきよめられている。道はけわしく荒れて
いるかもしれないが、イエスがその道を歩まれたのである。イエスの足
は、ひどいいばらをふみつけて、われわれがその道を通りやすいように
された。イエスは、われわれが負うように召されているどの重荷もご自
分で負われた。
 今イエスは、神のみもとにのぼって、神と共に宇宙の王座についてお
られるが、その慈悲深いご性質をすこしも失ってはおられない。今日も
同じように、やさしい同情に満ちたイエスの心は、人類のすべての苦悩
に向かって開かれている。刺されたみ手は、世にあるご自分の民をもっ
と豊かに祝福するために今日もさし出されている。「だから、彼らはいつ
までも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はな
い」(ヨハネ 10:2 8 )。キリストに献身した魂は、キリストの御目に
は、全世界よりもとうといのである。救い主は、ひとりがみ国に救われ
るためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。主は、ご
自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。イエスに従う
者たちが自分からイエスを離れようとしない限り、イエスは、彼らを固
くひきとめておられる。
 われわれには、どんな試練の時にも、決してわれわれを裏切られるこ
とのない助け主がある。主は、われわれが誘惑に抵抗し、悪と戦い、つ
いには重荷と悲しみにおしつぶされてしまうがままに、放っておかれな
い。いまは、イエスは人間の目からかくされているが、信仰の耳は、イ
エスのみ声が、「恐れるには及ばない、わたしがあなたといっしょにいる
のだ」と言われるのを聞くことができる。
 「(わたしは)また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、
見よ、世々限りなく生きている者である」(黙示録 1:18 )。わたしは、
あなたの悲しみに耐え、あなたの戦いを経験し、あなたの誘惑に会った。
わたしはあなたの涙を知っている。わたしもまた泣いたのである。人間
の耳に聞かせられないほどの深い悲しみをわたしは知っている。あなた
は、自分がうち捨てられた孤独な人間だと思ってはならない。この地上
にはあなたの苦しみを心の琴線に感じてくれる人がなくても、わたしを
見、そして生きなさい。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみは
あなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』と
あなたをあわれまれる主は言われる」(イザヤ 54:1 0 )。
 羊飼は、自分の羊をどんなに愛しても、やはり自分の息子娘はもっと
かわいいのである。イエスは、われわれの羊飼であるばかりでなく、わ
れらの「永遠の父」であられる。だからイエスは、「わたしは・・・・・・わた
しの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょう
ど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じであ
る」と言われる(ヨハネ 10:14、15)。これは何というとうといみ
ことばだろう。天父の愛されるひとり子、神が「わたしの次に立つ人」(ゼ
カリヤ 13 : 7 )と宣言されたお方、そのお方と永遠の神との間のまじ
わりをもって、キリストと地上の子らとの交わりを描写されるとは。
われわれは天父の賜物であり、イエスの働きの報いであるから、イエ
スはわれわれを愛されるのである。イエスは、われわれをご自分の子と
して愛される。読者よ、イエスはあなたを愛される。天そのものは、イ
エスよりも偉大なもの、イエスよりもよいものを与えることができない。
だから信頼なさい。ーDA52章

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