「信仰の原則」

序文

 神の教会がこの暗い世に残って、あらゆる種類の偽りの教理に対抗して戦っている限り、教会は教会員が何を信じているか、また現代の真理として何を宣べ伝えているかを知るために明確な信仰の告白を持たなければなりません。これが、各世紀を通じて次々起こる背教に直面して、神の子らが自分たちを神の民として特徴づける教理の原則を定めなければならなかった理由です。
 神の恵みによって改革運動が、預言によって、また第一次世界大戦の間のアドベンチストの人々の内に起こった背教に対応して残りの民として生まれたとき、終りの時代に生きている神の民を区別する信仰の聖書の原則を回復し高める必要がありました。ですから、1925年のドイツにおける世界総会において、37の信仰の原則が承認され、今日においてわたしたちは自分たちの民により分かりやすくして提示するのです。これらの原則がイエスを個人的救い主として愛する一人一人の心の指針となり、神のみ心である信仰の一致を達成することができることを心から願っています。                                 世界総会の兄弟



信仰の原則



1.聖書


 わたしたちは聖書が神のみ言葉であることを信じています。神ご自身がその著者です。旧約と新約の聖書の中に神は、ご自分のみ心をわたしたちに示しています (テサロニケ第一2:13; 詩篇119:105; エレミヤ15:16)。
 聖霊が著者の理解力を啓発することによって、聖書は神によって直接霊感を受けているのです (ペテロ第二1:19-21; テモテ第二3:15-17)。
 これらはわたしたちの世界と人類の起源、罪の侵入、贖いの神の計画を伝えています。イエスを通してのみ、新地において幸福な永遠の命を得ることができるのです。
 これらは、過去と現在と将来の出来事をわたしたちに明らかにしている記述を含んでいます。すでに成就した預言が、それらが神から来たことを証明しています (イザヤ46:9, 10)。
 聖書は、わたしたちの魂の救いに必要な知識とそれに至る道を明らかにしています。
 神の真の完全な啓示である聖書は、わたしたちの信仰と命の唯一絶対確実な標準です。



2.父なる神


 わたしたちは永遠の全知全能、遍在の神を信じています。このお方は創造主、支配者、全宇宙の保護者です (創世記17:1; 詩篇90:1, 2; 91:1, 2; 139:1-12; イザヤ44:6; 45:5, 6, 18; テモテ第一 6:16)。
 わたしたちは、「神は霊で」あり、人格を持っておられるお方であることを信じています (ヨハネ4:24)。「自分のかたち」に人を創造することにおいて、このお方はご自分を、人格を持たれた神として示されました (創世記1:26, 27; ダニエル7:9, 10)。
 キリストへの信仰を通してのみ、わたしたちは神のもとに行くことができるのです (へブル 11:6)。


3.イエス・キリスト


 わたしたちは、イエス・キリストが神の御子であることを信じています。このお方は御父の真の姿です (へブル1:1-3, 8; コロサイ1:15; 2:9; テモテ第一3:16)。

a. わたしたちは、イエス・キリストが地上に来られる前に神性において天に存在されていたことを信じています (ヨハネ1:1, 2; ピリピ2:5, 6; コロサイ2:9; ヨハネ1:14; ミカ5:2)。

b. このお方は、地上において処女マリヤから生まれました。「胎内に宿っているものは聖霊によるのである」(マタイ 1:18-23)。

c. 神はこのお方を通してすべてを創造された (ヨハネ1:1-3; コロサイ1:16, 17)。
 「人格を持ったお方として、神はご自身をご自分の御子のうちにあらわされた。イエスは、御父の栄光の輝きであり『神の本質の真の姿であって』地上において人間の姿で見出された。」(教会への証8巻p265)

d. 受肉、十字架、復活を通して、イエスはご自身を贖い主としてあらわされました。このお方は神と堕落した人類の間のただ一人の仲保者であられます。このお方の生涯は、全人類と特にこのお方に従うすべての者にとって唯一の模範です (使徒行伝4:12; ピリピ2:5-8; テモテ第一2:5, 6; へブル2:17; ペテロ第一2:21; 申命記18:15; ヨハネ18:37)。

e. 今日、このお方は天の聖所の至聖所において、わたしたちの大祭司として贖罪の最後の働きをなさっています (へブル8:1, 2; 7:24, 25; 4:15, 16; 9:24-26)。


4.聖霊


 わたしたちは聖霊が初めから働いており、贖いにおいても常に働いておられるということを信じています (創世記1:2; 詩篇51:11; イザヤ63:10, 11)。
 聖書はまさにその初めのページに、人の心における彼の働きをわたしたちに知らせています (創世記 6:3)。
 わたしたちは、聖霊が地上におけるキリストの代表者であることを信じています。聖霊は罪を悟らせ、悔い改めと改心へと導きます。聖霊は人を新たにし変化させます。聖霊はまた真理と神のみ心の知識へと導き、服従するための力と罪に対する勝利を与えます (ヨハネ3:5, 6; 14:16, 17; 16:13)。
 神のみ心に従って聖書を解釈することは、聖霊を通してのみ可能です (ヨハネ14:26; 使徒行伝1:8)。しかしながら、聖霊の性質は 神秘のままです (患難から栄光へ上巻p48)。
エスの任命によると、バプテスマは父と子と聖霊の名によって行われるべきです (マタイ28:18-20)。


5.人類の起源


 わたしたちは創造の六日目に、神は人をご自分の形に、完全に、また自由意思を持つ者として創造されたことを信じています (創世記 1:26-28)。
 「彼の性質は、神のみ旨と調和していた。人間の知力は、神の事物を理解することができた。彼の愛情は清く、食欲や情欲は理性の支配のもとにあった。彼は、神のかたちをしていて、神のみ旨に完全に服従していたので、清く、幸福であった。」(人類のあけぼの上巻p20)
 人類の起源は理解することが可能です。創造の神の計画は非常にはっきりと描写されているので、誤って結論をだす余地はないのです。
 「動物や植物などの下等な生命形態から、次第に発達の段階をたどって、人間は進化したのだと想像する余地は全くない。こうした考え方は、創造主の偉大なわざを、人間的な狭い、地上的な考え方のレベルに引き下げる。」(人類のあけぼの上巻p18)


6.贖いの計画
 

 わたしたちは、人は神の律法への不従順によって罪をこの世にもたらしたと信じています (創世記2:16, 17; 3:6)。そのようにして人の性質は悪くなりました。罪の結果は死です (ローマ5:12; 6:23; 詩篇14:3; ヨブ14:4)。
 「神は愛である」計り知れない深い愛は、失われた人類へ救いの道を備えました。ただ一つの可能性は、イエスが罪による悪とその罰を受けることでした (ヨハネ第一4:16; ヨハネ3:16; イザヤ53:4-6; ペテロ第一2:24)。
 罪の許しと義認は、イエスの身代わりとしての死とこのお方の義なる生涯を通してのみ可能です (ローマ4:25; 5:1; 3:24)。イエス・キリストは、世の罪を負い、世の初めから神によって備えられた小羊であられます (ヨハネ1:29; ペテロ第一1:18-20)。
 イエスを個人的な救い主として信じる信仰を通して、忠実な服従が表わされるようになり、罪人は永遠の命を受けます。服従は救いの真の実なのです (ローマ8:1-4; ヨハネ14:15, 21)。
愛と神の計り知れない賜物に対する感謝に動機づけられ、聖霊の力を通して、信じる者は神のすべてのご要求に服従するのです (エペソ2:8, 9; ヨハネ15:10; ヨハネ第一5:3)。


7.神の律法−十戒


 わたしたちは、十戒は完全であり、すべての人の生活と行動の確かな指針であるということを信じています (伝道の書12:13; マタイ5:17, 18; ローマ3:28, 31; 7:12; 黙示録12:17; 14:12)。
 聖書は神ご自身がシナイ山十戒を告げられ、ご自分の指で二枚の石の板に書かれたということを教えています (出エジプト記31:18; 32:15, 16; 申命記4:12,13)。わたしたちが神の聖なる十戒を認めるとき、わたしたちが父なる神と神の御子を愛することを示します。神の律法は神ご自身のみ心と品性の啓示です。それは神の完全さの写しであり神の真の品性を反映しています。律法は特に愛の原則と義と神の秩序を示しています (ローマ13:10; ヨハネ第一5:3)。
 律法は霊的なものなので、神の力とイエス・キリストへの信仰を通してのみ守ることができるのです。試練と憶測の只中にあっては、「人間に従うよりは、神に従うべきである」というのが、ただ一つの答えです (使徒行伝5:29)。
 十戒は神によって与えられ、以下の通りです (出エジプト記20:2-17)。

I
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

II
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」

III
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」

IV
安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

V
「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」

VI
「あなたは殺してはならない。」

VII
「あなたは姦淫してはならない。」

VIII
「あなたは盗んではならない。」


IX
「あなたは隣人について、偽証してはならない。」

X
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」


8.第四条―安息日


 わたしたちは、第四条は他の戒めと共に不変のものであってすべての人に効力を持っているということを信じています。安息日は創造の六日目の後に祝福され聖別されることによって神によって制定され、神がその日に休まれることによって区別されました。それは創造の記念として、人類への休みの日として与えられました。ですから、それは主の日とも呼ばれています。働きを休み、神を礼拝し、宗教的な奉仕をなすことによってこの日を守るように、神はわたしたちに命じられます。安息日はまた贖いの象徴であり、聖化のしるしであり、服従の証であり、神の御国における永遠の命の前触れでもあります。神の休みの日は、終りの時代の神の従順な子供たちの特別なしるしです (創世記2:1-3; 出エジプト記20:8-11; 31:15; レビ記23:3; マルコ2:27, 28; ルカ16:17)。
 金曜日 (備えの日) には、七日目のためのすべての準備が終わらなければなりません。これは安息日のための食事の準備、家の掃除、衣服の準備、入浴を含んでおり、そうすることによってわたしたちは安息日を平安のうちに静かに始めることができます (出エジプト記16:23)。
 「備えの日に注意しなければならない働きがもうひとつある。この日には、家庭内でも教会内でも、兄弟間のすべての不和を取り除いておかねばならない。すべての敵意と怒りと悪意を魂から追い出しなさい。へりくだった精神をもって、『互に罪を告白し合い……いやされるようにお互のために祈りなさい』(ヤコブ5:16)。」(教会への証6巻p356)
 旅行については次のようにあります。「わたしたちの助けを必要としている教会に手を差し伸べ、神が彼らに聞くように望まれるメッセージを与えるために、安息日に旅行することが必要になるかもしれない。しかし、わたしたちは、他の日に切符を購入しすべての必要な手配をすべきである。旅を始めるとき、安息日に目的地に着くことを避けるためにできる限りすべての努力をして計画すべきである」(教会への証6巻p360)。
 安息日には、わたしたちはすべての世的なこと、また仕事のための旅行、会話、活動を慎むべきです。わたしたちの会話は霊的な性質のもので、神の誉のため、わたしたちの霊性を高めるためのものであるべきです (イザヤ58:13, 14)。
 「神は、病人や苦しんでいる人の世話をするように命じられた。彼らを安楽にするために必要な働きは、慈善の働きであって、安息日を犯すことにはならない。しかし、不必要な仕事は全部避けねばならない。」(人類のあけぼの上巻p343)
 わたしたちはまた、自分の子供たちが安息日に世の学校に出席することを免除してもらうように求めます。
 創造の順序に調和して、一日はサンセット (日没) で始まり、サンセット (日没) で終わります。ですから、安息日は金曜日の夕方の日没から始まり、安息日の夕方の日没で終わります (創世記1:5; レビ記23:32; ルカ4:31, 40)。


9.結婚


 わたしたちは神がパラダイスにおいて結婚を制定され、このお方によって祝福され聖別されたということを信じています。
 「神は、最初の結婚をとり結ばれた。だから、結婚式の制定者は、宇宙の創造主である。……それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た二つの制度のなかの一つである。」(人類のあけぼの上巻p21)

 結婚は以下のために制定されました。

 a. 男と女が愛のうちに互いを補って助けるように (創世記 2:18)。
 b. 人類の増加のために (創世記 1:27, 28)。(コリント第一 7:1-9)

 結婚は男と女の一生の愛と忠誠に基づいた契約であるべきです (マタイ19:4, 5; マラキ2:14 (下句))。神は結婚を無我、愛、誉、尊敬、自己忘却、責任の原則の上に定められました。 男がまず初めに創造され、彼は生まれながらの指導者であり家族の扶養者です。女は男の指導権を尊重する必要があります。そして男は、キリストが教会を愛され死なれたように自分の妻を愛するのです (エペソ5:23, 25)。
 真の結婚は霊的、精神的、身体的で、信仰と心と体の調和の一致です。男と女は一つの体を形成するのです (創世記2:24; マタイ19:5, 6)。
 わたしたちは、クリスチャンは節度の原則を守り、彼らの身体的また精神的力が、激情と低い肉の欲の祭壇で犠牲にされないようにするべきであると信じています。これについて神のみ言葉に与えられた勧告は、神に喜ばれる純潔と命への指針です (テサロニケ第一4:3-5)。
わたしたち教会員は他の信仰を持つ人々、また未信者と結婚をするべきではないと信じています。聖書はそのような結婚を罪と見なしています (申命記7:3, 4, 6; コリント第二6:14, 15)。
わたしたちは、離婚は神のみ心ではないと信じています (マタイ19:3-9; マルコ10:9-12; ローマ7:1-3; コリント第一7:10, 11)。
 「ユダヤ人の間では、男はごくささいなことで妻を出すことが許されており、出された妻は再び結婚してもかまわなかった。この習慣から非常な不幸と罪が生じた。イエスは山上の垂訓で、結婚の誓約に対する不実以外のことでは結婚のきずなが解消されないことを言明された。『だれでも 不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである』とイエスは仰せられた(マタイ5:32)。」(祝福の山p78)  
さらに、結婚相手が別れたり離婚したりした場合、彼らは和解するまで結婚しないで留まるべきです (コリント第一7:10, 11, 39)。
 「この誓いは二人の運命を、死の手しか切り離すことのできない絆で結ぶ。」(教会への証4巻p507)
 わたしたちはさらに、結婚は国家の権威と教会の両者の前で結ばれるべきであることを信じています。
 結婚を熟考しているすべての人は注意深い考慮と熱心な祈りの後に、信仰を持った両親と霊的助言者の勧告を求めるべきです。


10.神の律法の変更


 わたしたちはダニエル7:25にある、「時と律法とを変えようと望む」という預言は成就したということを信じています。像を尊び拝むことを禁じる第二条が十戒から取り除かれました。第四条の戒めである安息日は、日曜である週の第一日を国家と教会の休みの日として権限もなく導入することによって変えられました。十条の数を補うために、第十条が二つに分けられました。


11.モーセの礼典律


 わたしたちは神が、モーセを通してイスラエルの民に犠牲制度と宮の奉仕の儀式に関する様々な定めを与えられたということを信じています。それらはキリストの贖いの働きを説明し、来たるべきことの影と象徴でした。礼典律の効力は、イエスが十字架上で「すべてが終わった」と叫ばれたときに終わりました (へブル10:1; コロサイ2:17)。

 「イエスが、カルバリーで、『すべてが終った』と叫んで、なくなられたときに、神殿の幕が、上から下まで真っ二つに裂けた。……
 神殿の幕が裂けたことは、ユダヤ人の犠牲と儀式がもはや 神に受け入れられなくなった証拠であった。大いなる犠牲であられるキリストがささげられて、神に受け入れられたのであった。」(初代文集p413, 420)


―礼典律の安息日、あるいは影としての安息日


 わたしたちは礼典律の安息日、コロサイ2:16, 17 とガラテヤ4:10にパウロが書いた安息日はキリストの犠牲と贖いの影にすぎなかったということを信じています。ですから、休みの日として人類に与えられた週毎の安息日とそれを混同してはいけません。それは創造において制定された主の日です (創世記2:1-3; 出エジプト記20:8-11; レビ記23:3; イザヤ58:13; マルコ2:27, 28)。

 礼典律には以下の影としての安息日が含まれています。

 種入れぬパンの祭り:過ぎ越しが種入れぬパンの祭りの前に来ます。ユダヤ暦の年の初めの月の15日と21日は安息日として祝われ、すべての肉体労働は退けられました (レビ記23:5-8)。
ペンテコステまたは7週の祭り:初めの月の16日から数えた50日目は安息日として祝われました (レビ記23:15, 16, 21; 出エジプト記34:22)。

 ラッパの祭り:7月の1日であるラッパを吹く日は、贖罪の日の準備としてありました (レビ記23:24, 25)。

 贖罪の日:贖罪の日として知られている7月の10日は、最も聖なる安息日として指定されていました。それは礼典律の一連の安息日の最上の日でした (レビ記23:27, 28, 31, 32)。
仮庵の祭:7月の15日と22日は、仮庵の安息日として楽しく祝われました (レビ記23:34-36, 39, 40)。

 もし、イエスが週毎の安息日を廃し、ご自分の死によって日曜日を制定されたとしたら、それについて聖書に明確な命令がなければならないでしょう。イエスまたは使徒もそのような変更を告げていません。それと反対のことが次の聖句によって証明されています (マタイ5:17, 18; 24:20; 使徒行伝13:13, 14, 42-44; 16:13; 17:2; 18:2-4, 11)。


12.人の状態


 わたしたちは堕落後、人は神のみ前における高められた地位を失ったということを信じています。その時から、全人類は罪の結果の下にいます。人は弱さと悪への傾向を持って生れ、死の力の支配下にいます。
 「罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなった。」「人間は神に背いて自ら神に遠ざかり、ついに地は天より切り離されてしまった。そこに横たわった深い淵を越えて交わることは不可能だった。」(キリストへの道p13, 19 (英訳))
 「人間は、神の律法を犯したときに、その性質は邪悪となり、サタンに敵対するのでなく、協調するようになった。」(各時代の大争闘下巻p243)
 「人間は罪を犯して堕落したために、自分の力では、清く恵み深いご性質の神と調和することができなくなった。」(人類のあけぼの上巻p54)
 このように人間の状態は希望のないものとなったのです (ローマ5:12; 3:10-12; 6:23; 詩篇51:5; マタイ15:18-20; ガラテヤ5:19-21; ローマ7:18-20)。


13.神の提供される恵み


 わたしたちは、神は人間を救うためにご自分の御子をこの世に送られるほど、この世を愛されたと信じています。堕落と反逆が至る所に広く行き渡っているにもかかわらず、人の贖いのための道はすでに備えられました (エペソ1:4; 2:8; ペテロ第一1:19, 20)。
 イエス・キリストは人として生まれ、すべてのことにおいてご自分の父に従順であられました。わたしたちの身代わりとして、ご自分の生涯と死を通して和解と救いの基は据えられました。このお方はわたしたちの義認のためによみがえられ、ご自分の流された血と義によって天の至聖所において、悔い改めた罪人を神と和解させ義とするために天へ昇られました。神の義と善は、贖いというこの救済の行為に明らかにされています。わたしたちの罪はキリストのうちに裁かれ、同時に許しの道が示されています (ローマ3:24)。
 「わたしたちのための神の約束とわたしたちに与えられるものは制限がない。恵みのみ座それ自体が最高に魅力のあるものである。なぜならこのお方を父と呼ぶことを許されるお方が座しておられるからである。
 神の子が恵みのみ座に近づくと直ちに、彼は大いなる弁護者への依頼人となるのである。神の子が初めの悔い改めの言葉と許しの嘆願を口に出すと、キリストは彼の訴訟を支持されて、それをご自分のものとされ、御父の前にこの嘆願をご自分の要求として提示される。
キリストがわたしたちのためにとりなしをなさるとき、御父はご自分の恵みのすべての宝をわたしたちに割り当て、わたしたちがそれを楽しみ、他の人々に知らせるために開かれる。」(教会への証6巻p363, 364)
 わたしたちは、神の恵みを通してこのお方の子となるということを信じています。それはわたしたちの贖い、再生をもたらし、キリストとの共同の相続人として受け入れられるようにします (テトス2:11; ヨハネ1:16; ペテロ第一1:13)。
 恵みは功績なくして得られる恩恵です。それは神の御子がわたしたちの代わりに死ぬという神の賜物を含んでいます。このお方が流された血と義を通して、悔い改めた罪人は神の前で立つことができるのです (ヨハネ第一1:7)。


14.キリスト我らの義


 わたしたちは、イエス・キリストの義なしには、死すべき者はだれも聖なる神のみ前に立つことができないと信じています。預言者イザヤは次のようにこれを表現しました。「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ64:6)。
 わたしたちの信仰の生涯に対するこの重要な主題をはっきりと示すために、次の証の書を引用します。
 「私どもは罪深く汚れているので、きよいおきてに完全に従うことができません。神のおきての要求に応じうる義を持ちあわせていません。けれどもキリストは、私どものために逃れる道を備えてくださいました。キリストは、この地上で私どもが会わねばならない試練と誘惑のまっただ中で生活し、罪なき生涯をお送りになりました。そして、私どものために死に、今や私どもの罪を取り除いて、おのれの義を与えようとしておいでになります。」(キリストへの道p77,78) (ローマ5:1; 1:16, 17; 3:23, 24)
 「信仰による義認とは何であろうか。それは人の栄光をちりに伏させ、人が自分のために自分の力でできないことを人のためにする神の働きである。人が自分自身の無価値さを悟るとき、彼らはキリストの義によって覆われる準備ができるのである (レビュー・アンド・ヘラルド1902年9月16日)。」(キリスト我らの義, A.G.ダニエルズp104)
 「こうして人は、神の寛容によって、過去の罪をゆるされるのである。のみならずキリストは、人のうちに神の属性をうえつけてくださる。キリストは人の品性を神のご品性にかたどって、霊的な力と美しさを備えたりっぱな織物としてくださる。こうして律法の義そのものが、キリストを信ずる者のうちに成就されるのである。」(各時代の希望下巻p288)
 「キリストはその全き従順によって、あらゆる人間が神の戒めに従うことができるようになさった。人が自分自身の心をキリストにささげるとき、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストのいのちを生きる。これがキリストの義の衣を着ることである。そして、主がわたしたちをご覧になるとき、いちじくの葉の衣でも、裸と罪のみにくさでもなく、エホバなる神の律法への完全な従順であるご自分の義の衣をお認めになる。」(キリストの実物教訓p292)
 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:1, 34; エレミヤ33:15, 16)
 「わたしたちが義とされるのはキリストによって着せられる義によってであり、わたしたちが清められるのは、キリストを通して与えられる義によるものである。前者は天国にはいる私たちの肩書き、後者は天国にはいるわたしたちの資格である (レビュー・アンド・ヘラルド1895年6月4日)。」(キリスト我らの義,A.G.ダニエルズp 98)


15.悔い改め   


 わたしたちは、神のみ言葉と聖霊の働きの感化の下にあって、人は自分の失われた状態を認識するようになるということを信じています (詩篇32:1-5; 51:3, 4; ヨハネ16:7, 8)。
 「悔い改めとは罪を悲しむことと罪を離れることを含みます。」
 「けれども人の心が神の聖霊の感化に服従するならば、良心はよびさまされ、罪人は神の聖なるおきてのいかに深くまた聖なるものであるかを悟り、これこそ天地を治めておいでになる神の政治の基礎であることを知るようになるのであります。」
 「人は、罪の恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではありません。心の中で全く罪から離れなければ、生活にほんとうの変化は起らないのであります。」(キリストへの道p22-24) コリント第二 7:10をご覧ください。
 わたしたちは、キリストなしにはわたしたちの罪の許しを得ることができないように、良心を目覚めさせる聖霊なしにはもはや悔い改めることはできません。


16.罪の告白


 わたしたちは、自分の罪を告白するすべての者は許しと義認を受けるということを信じています。なぜなら、イエスは悔い改めるすべての者のためにご自分の血をもって嘆願なさるからです (ヨハネ第一1:9; 2:1)。
 「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」(箴言28:13)
 「私どもの罪がゆるされるには、なにか面倒なことをしなければならないとは要求なさいません。長途の巡礼の旅に上ったり、痛々しい苦行をしたりして、天の神に自分がよく思われようと思ったり、罪の償いをしようとしなくてもよいのであります。ただ罪を言い表わして、これを離れる者はあわれみをうけるのであります。
 真の告白はつねに、はっきり自分の犯した罪そのものを言い表わすのであります。神にだけ告白すべきものもありましょう。または、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないものもありましょう。あるいは公のものであれば、公に告白しなければならないこともありましょう。いずれにせよ、告白はすべてはっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めねばなりません。」(キリストへの道p43,45)


17.新生


 わたしたちは、イエス・キリストに自分の命を捧げ、このお方を自分の個人的救い主として受け入れる者は新生を経験することを信じています (ヨハネ1:12, 13)。
 「神のみたまが心を占領されるとき、それは生活を生れ変らせる。罪の思いはしりぞけられ、悪い行為は放棄され、愛と謙遜と平安が怒りとねたみと争いに入れ代る。よろこびが悲しみに入れ代り、顔には天の光が反映される。だれも重荷を持ちあげる手を見たり、天の宮からくだる光を目に見たりする者はない。祝福は、信仰によって魂が神に屈服するときに与えられる。その時、人間の目で見ることのできない力が、神のかたちにかたどって新しい人間を創造する。」(各時代の希望上巻p203)
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント第二5:17)
 「過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。」「神の恵みによって新しくされた心のうちでは愛が行為の原則となります。」(キリストへの道p71, 73)
 「人の心は、新しく生まれることにより、神の律法と一致するとともに、神と調和するようになる。この大きな変化が罪人の中に起きたとき、彼は、死から生命へ、罪から聖潔へ、違反と反逆から服従と忠誠へと移ったのである。神から離反していた古い生活は終わった。和解の生活、信仰と愛の新しい生活が始まった。」(各時代の大争闘下巻p195, 196)
 「再生はわたしたちが神の都に入ることのできるただ一つの道である。」(教会への証9巻p23) (ヨハネ3:3-8; 1:12, 13; ペテロ第一1:23; ヤコブ1:18; ペテロ第二1:3, 4)。


18.聖書的バプテスマ


 わたしたちは、バプテスマは神との明らかな良心の契約であるということを信じています。イエスのご自分の教会への任命が次のように書かれています。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し……」(マタイ28:18-20)。
 キリストは、バプテスマをご自分の霊的王国へ入るしるしとして制定なさいました。この儀式はイエスの葬りとよみがえりをあらわしており、同じように古き人の葬りとキリストにある新しい命へのよみがえりをあらわしています (使徒行伝2:37, 38; 8:36-39; ローマ6:2-5; コロサイ2:12)。
 バプテスマは、イエスに従うということを公に認めることです。それは水に沈めることによってなされます。聖書の真理の徹底的な指導と、バプテスマの審査が信仰のバプテスマの前になされます。
 従って、幼児の洗礼は、聖書的根拠に欠けているためにそれはただ人間の制度とみなすことしかできません。
 善悪を判断できない人が、バプテスマを受けることは認められません。
バプテスマや採決によって受け入れられる前に、すべての魂は以前の教会団体や宗派から離れるべきです。
 バプテスマは、初めに聖書的規定に調和しないでなされたとき、またはその人が無知の状態にあってなされたときにのみ二度目に行われます (使徒行伝19:2-6)。


19.主の教会


 わたしたちは、教会の頭はイエス・キリストであるということを信じています。教会は、キリストを救い主また主として受け入れ、このお方の教えと戒めに従って生きる信者の集まりです (エペソ5:23; 4:15; コロサイ1:18)。
 教会員は、キリストの教会において共通の教え、経験、助言、勧告を通して永遠のために準備されます (テモテ第一3:15)。
 教会の命と行動のための不変の基準は聖書です。そこにはイエスの生涯に実際的に示された、義と愛という偉大な神の品性である神の十戒が入っています。十戒を通して、各時代において背教だけではなく残りの教会を識別することが可能なのです (黙示録12:17; 14:12)。
 「教会は人類救済のために神がお定めになった機関である。教会は奉仕するために組織された。その使命は世界に福音を伝えることである。」(患難から栄光へ上巻p9)
 そのように教会は世の光となることができるのです。イエスは、仲保の大いなる祈りの中でご自分の弟子たちの一致のために祈られました (ヨハネ17:21; エペソ4:16)。
 わたしたちは、すべての教会員は神と神の民に対する愛から教会の秩序を守るということを信じています (へブル13:7, 17; テサロニケ第一5:12, 13)。(注記:教会の秩序と組織については、教会の規定をご覧ください。)


20.洗足


 わたしたちは、洗足は主の晩餐の前に行われるべきであることを信じます。それはへりくだりと愛のうちに互いに仕えるために心を準備し、そのようにして密接な交わりに導くのです (ヨハネ13:1-17)。
 「このことばには身体のきよめよりももっと深い意味がある。キリストはまだ低いきよめに例示されている高いきよめについて語っておられる。……イエスが彼らの足のほこりを洗うためにタオルを腰にまかれた時、主はその行為によって、彼らの心から不和、嫉妬、高慢を洗い流したいと望まれた。このことは、彼らのほこりまみれの足を 洗うことよりもずっと重大なのであった。そのときの彼らの精神では、キリストとまじわる用意のできている者は ひとりもなかった。謙遜と愛の状態に達するまでは、過越の食事にあずかる用意、すなわちキリストが制定しようとしておられる記念式にあずかる用意ができていないのであった。」(各時代の希望下巻p122)


21.主の晩餐


 わたしたちは、主の晩餐はイエスの苦しみと死の記念であると信じています。
 パンはイエスの体の象徴であり、発酵していないぶどう酒はこのお方が流された血の象徴です (マタイ26:26-28; コリント第一10:16, 17; 11:23-26)。
 「弟子たちと過越の食事をされたとき、主は、過越節の代りに、主の大いなる犠牲の記念となる式をお定めになった。
 キリストは、過越の食事が並べられた食卓にまだついておられる。過越の時に用いられるたねいれぬパンがその前にある。発酵していない過越のぶどう酒が食卓の上にある。これらの象徴を用いて、キリストは、きずのないご自身の犠牲をお示しになる。罪と死の象徴である発酵によってけがされているものは『きずも、しみもない小羊』を象徴することはできない(ペテロ第一1:19)。」(各時代の希望下巻p130-132)
 罪の許しは、パンとぶどう酒を取ることによっては起こりません。イエスの苦しみと死の記念として、それは教会を力づける役目を果たします。
 準備は自己吟味、罪を認めること、罪の告白と、罪に対する真の悲しみを含みます。


22.預言の霊


 わたしたちは、キリストがご自分の預言者たちを通して旧約と新約聖書のうちにご自分の教会に語られたということを信じています (歴代志下20:20; ペテロ第二1:19-21; へブル1:1-3)。
 預言の賜物を通して与えられた指示は、天からのものであり神の民への神の声です。主はこの賜物をご自分の教会がこれを守り従うようにと与えられ、それは聖霊の導きのもとにわたしたちにもたらされるのです。
 黙示録12:17と19:10によると、主はこの預言の賜物を神の戒めを守る終わりの教会に約束されました。この預言を成就するにあたって、主はご自分の民の間で預言の賜物を起こされました。1844年から神は、ご自分のみ心を教会と滅びゆく世に宣言するためにエレンG.ホワイトをご自分の使命者としてお用いになりました。彼女の働き、話された言葉と書かれた言葉を通して数えきれない人々が神との平和の道を見出しました。
 神によって召された預言者を識別するすべての特徴 (神のみ言葉への忠実、贖い主としてイエスを信じること、十戒を受け入れること、聖霊の実) は、神のこの使命者の生涯と働きに見出されました。彼女は次の言葉に聖書に関しての彼女の立場を説明しました。
 「神は、みことばを通して、救いに必要な知識を人間にお与えになった。われわれは、聖書を、神のみこころについての権威ある、まちがいのない啓示として受けとらねばならない。聖書は品性の規準であり、教理を示すものであり、経験を吟味するものである。『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである』(テモテ第二3:16)。」(各時代の大争闘上巻序文p3)
 神の教会において男だけではなく忠実な女性も、神の民に命と救いの重要性についてのメッセージと警告を伝えるように召されました。例えばミリアム(出エジプト記15:20), デボラ(士師記4:4), ホルダ(列王紀下22:14-16), アンナ(ルカ2:36),ピリポの娘(使徒行伝21:9)です。
そのように、真の教会はこの賜物を高く評価し、感謝して受け入れ主が与えられた指示に従うのです。
 教会がこの賜物を軽視したり軽蔑したりするときはいつでも、神が安全に導き祝福しようと望まれる方法を軽蔑するのです (箴言29:18; 歴代志下20:20)。
 「バプテスマと主の晩餐の儀式は二本の重要な柱であり、その一つは教会の外に立ち、もう一つは教会のうちに立っている。これらの儀式の上にキリストは真の神の名を刻まれた。」(教会への証6巻p91)
 バプテスマによって神との契約をなし、教会員になった人だけが主の晩餐にあずかることができます。
 「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。」(出エジプト記12:43)


23.健康改革


―健康と栄養

 わたしたちは、神が人を完全に造られたということを信じています。体と魂と霊は主に属しています。人間が霊的、精神的、身体的健康を喜ぶようにというのが主のみ心です。ですから、神の健康の原則を守ることは、わたしたち自身の健康のためだけではなくて人類にさらに良く仕えることができるためのわたしたちの義務です (ルカ9:2; テサロニケ第一5:23, 24)。
 「健康改革は、民を主の来臨のためにふさわしくするための大いなる働きの一つの分野である。それは、体に手がつながっているように第三天使のメッセージに密接につながっている。」(健康への勧告p20, 21)
 創造主がパラダイスにおいて人間の食事を定められたとき、このお方は人間の体の栄養のためには何が最高の基礎であるかを示されました。それは植物性の食物です。穀物、果物、ナッツがわたしたちの創造主によって選ばれた食物です (創世記1:29)。野菜は後で加えられました (創世記3:18)。 従ってわたしたちは、すべての種類の肉 (鳥、魚また他の肉) を控えます。さらに、わたしたちはアルコールとカフェインの入った飲料 (コーラなど) 、強い香辛料、強く発酵したチーズ、コーヒー、紅茶、たばこ、すべての種類の薬物を避けます。わたしたちは牛乳と砂糖を組み合わせることに対して忠告します (コリント第一6:19, 20)。
 再臨信徒としてわたしたちは、預言の霊の証を通してわたしたちの健康の維持に関して多くの光を受けました。まず、わたしたちは人間の初めの夫婦に定められた健康的食物によって、また自然治療によってわたしたちの体を健康に保つ必要があります。しかしながら、外部からの有害な影響によって、以前の不適切な生活習慣、ストレスや現代生活の他の要素などによってわたしたちが病気になり医療の助けが必要となった場合、わたしたちはできるだけ信仰を持った医者を探すべきです。特別にそのような状況にあって、わたしたちは主なる神がわたしたちの医者であり本当に助け癒すことができるという約束に信頼することができます。薬は絶対的に必要不可欠な場合のみ、慎重に用いるべきです (出エジプト記15:26)。
 「新鮮な空気、日光、節制、休養、運動、正しい食事、水の使用、そして神の力にたよること、これが真の療法である。各自が自然のうちにある治療に役立つものを知り、これをどう用いるかを知らなければならない。」(ミニストリー・オブ・ヒーリングp97)

―衣服

 再臨信徒として、わたしたちは衣服においても改革者です。わたしたちは派手な衣服や不健康な衣服、慎みの標準に反し不道徳な状態を広める直接的原因になる極端なファッション、また不健康な履物を身に付けるべきではありません。
 「また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。」(テモテ第一2:9, 10) (ペテロ第一3:3-5; イザヤ3:16-24)
 着ている人に注意を引く外観の飾りは、神に栄光を帰しません。
 髪に関して聖書は次のように言っています。「自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである」(コリント第一11:14, 15)。
 イエスの愛が心にあるときに、一人一人の信者はこれらのことにおいて模範となるのです。


24.政府


 わたしたちは、政府は神から制定されており、神の公使として、善を守り悪を罰する責任を持っていると信じています (ローマ13:3, 4)。
 この理由のため、わたしたちは神の戒めを犯すように強いられていない限り、政府に対するわたしたちの義務を果たす責任があります (使徒行伝4:19; 5:29)。
 イエスは、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と言われました。ここにあるように、わたしたちは税金と当然払うべきお金を払います。
わたしたちは、人々の間に平和と秩序が行き渡り、それぞれがその信仰を生き、キリストの福音の宣布が妨害されないように、政府のために祈ることが必要であると信じています (テモテ第一2:1, 2)。
 「あなたは殺してはならない」(出エジプト記 20:13) という六条の戒めによって、またイエスの教えによってわたしたちはこのお方に従う者として政治、反乱、流血、また戦争に参加することができません。


25.誓い


 わたしたちは、神のみ言葉によって偽りの誓い、または不必要な誓いは神のみ前に忌むべきことであると信じています (マタイ5:34-37; ヤコブ5:12)。
 真の信者の普通の言葉は、「しかり、しかり。否、否」です。しかしながら、福音に一致して必要とされる誓い、語った言葉が真実であるということの証人として神のみ名を呼ぶことは、神によって是認されています (ローマ1:9; 申命記6:13; 祝福への山p66, 67)。


26.聖所


 わたしたちは、旧約時代の礼拝の中心は聖所であり、初めは持ち運びのできる幕屋の形であり、後に宮として建てられたと信じています。地上の聖所は庭、聖所、至聖所から成っていました。犠牲は庭で捧げられました (へブル9:1-7)。血によって、罪は聖所に移され、そうすることによって汚れました。罪のためにもたらされた犠牲は「世の罪を取り除く神の小羊」であられるイエスを指し示しました (ヨハネ1:29)。祭司は神と人の間の仲保者として選ばれました。
 一年に一度、大いなる贖罪の日に聖所は清められました。大祭司は至聖所に入って罪祭からの血を契約の箱の上と前に注ぎました。律法の要求はそのようにして満たされました (ローマ6:23)。それから、仲保者として彼は自分の上に罪を負い聖所から運び出しました。その罪は生きたやぎに移され、やぎは荒野に連れて行かれました。これらの儀式的行為を通して、人々は神と和解し、聖所は清められました (レビ記16:15, 16, 20-22)。
 地上におけるこの聖所は天にその原型を持っており、そこでイエスは今日において大祭司なのです。このお方の仲保の働きを通して信者は許しと義認と聖化を得ることができます (テモテ第一2:5, 6; へブル8:1-5; 9:11, 12, 15; 黙示録11:19)。
 「天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。
 天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを、復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、『わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた』幕の内に入らなければならない (ヘブル6:20)。」(各時代の大争闘下巻p222)


27.2300日


 わたしたちは2,300の夕と朝は確実な期間をあらわしており、それは終わりの時代に達しているということを信じています。預言の解釈における日と年の原則によると、一日は一年を意味しています (民数記14:34; エゼキエル4:6)。―2300日は実際的な年です。ダニエル9:24-27に基づくと、この時はB.C.457年にアルタシャスタ王によって与えられたエルサレム再建の3度目の命令によって始まりました。これ―聖書にある最長の預言の期間―から70週(490年に相当する)が切り取られています。この期間はユダヤ人の民に割り当てられており、A.D.34年に終わりました。残りの1,810年は「終りの時」(ダニエル8:17)である1844年に達します。この年に、イエスは聖所におけるご自分の奉仕を終えられて、至聖所において大祭司として働きを始められました。
 「型としての儀式において、一年の終わりに贖罪の働きがあったように、人類の贖いのためのキリストの働きが終わる前に、聖所から罪を取り除く贖罪の働きが行なわれるのである。これが、二千三百日が終了した時に始まった務めであった。その時に、預言者ダニエルが預言したとおり、われわれの大祭司は、彼の厳粛な働きの最後の部分を行なうために、すなわち聖所を清めるために、至聖所に入られたのであった。
 象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出て、その罪が罪祭の血によって聖所に移された者だけが、贖罪の日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と調査審判の大いなる日に、審査されるのは、神の民と称する人々だけである。
 われわれの大祭司は、天使たちを従えて、至聖所に入り、神のみ前で、人類のための彼の最後の務めをなさる。それは、調査審判の働きであり、贖罪の恵みにあずかる資格があることを示したすべての人のために贖いをなさることである。」(各時代の大争闘下巻p135, 211)
 この時に、イエスは地上の聖所での奉仕によって象徴されているように、天の聖所の至聖所で終りの働きを始められました。それは調査審判と同じ時です。そのように地の中で休んでいる多くの者の中でだれが命のよみがえりにふさわしい者か、生きている者のうちだれが変えられて永遠の栄光に入るにふさわしいかが決定されます。この贖罪の奉仕の終りは、恩恵期間の終りでもあります。


28.福音の宣教


 わたしたちはイエスの大いなる福音の任命を信じています。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』」(マタイ28:18-20)。
 わたしたちは、語られたみ言葉と書かれたみ言葉を通して、福音を全世界に広めることに協力することを特権また義務とみなしています (マタイ11:29, 30; 24:14; マルコ16:15, 16; 使徒行伝1:8; 黙示録14:6-12)。


29.福音を宣べ伝える方法(献金


―什一献金

 わたしたちは、神がこの世界の所有主であると信じています。「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」(詩篇24:1)。このお方はわたしたちをご自分の管理人として選ばれました。一人一人の信者は神が祝福して与えられた全所有物と収入の什一を捧げる特権と義務を持っています。
 什一は神の働きにおいて仕えている使命者を支え、福音を広める役目を果たします。什一は神の所有物であるので、主はそれを差し控えることを詐欺行為とみなされます (創世記28:22; ネヘミヤ13:10-12; マラキ3:6-12; マタイ23:23; へブル7:4-9; コリント第一9:13, 14)。
 「什一制度における神の計画は、その単純さと平等という点において美しいものである。その起源は神にあるのだから、だれでも信仰と勇気をもってこれをつかむことができる。その中には単純さと有用性が結合されており、これを理解し実行するのに深遠な学問はいらないのである。だれでも自分はこの救いのとうとい働きを前進させる上にその一端を負っているのだと感じることができる。男も女も青少年も主の会計となって、財政上の要求に応じる一手段となることができる。」(教会への証3巻p388, 389)

―自由献金

 「主の什一に加えて、主はわたしたちのすべての産物の初穂を要求される。」(教会への証6巻p384)
 宣教の献金、感謝献金安息日学校献金、特別な目的のための献金、貧しい人々への献金などの他の献金は、福音の働きを宣布し支援する目的を果たします。
これらの贈り物によって、わたしたちは神の祝福と恩恵へのわたしたちの深い感謝を表明するのです。わたしたちの什一と献金を払うことにおける忠実さと誠実さは、わたしたちが愛に成長することを可能にし、利己心と貪欲に勝利するようにわたしたちを助け、天の祝福によって報われるのです (コリント第二9:6, 7; 使徒行伝20:35)。


30.三天使のメッセージ


 わたしたちは黙示録14:6-12のメッセージは終わりの時代に効力を持っているということを信じています。三重のメッセージとしてのつながりにおいて、それらは滅びゆく世界への最後の警告のメッセージと救いを構成しており、すべての国民、国語、民族に宣ベ伝えられるべきです。
第一天使のメッセージは、永遠の福音とさばきの時が来たという宣言を指示しています。それは全人類に創造の神を畏れ、このお方に栄光を帰し、拝むように促しています (黙示録14:6, 7)。
 第二天使のメッセージはバビロンが倒れたことを宣言しています。何世紀もの間に、偽りで聖書に反する宗教組織が発達し、非常に大きい混乱 (バビロン) を引き起こしました。これは特別な意味において、教会がキリストが間もなく帰って来られるという聖書的メッセージを拒んだときである19世紀の半ばに見られました。
 第三天使のメッセージは、偽りの宗教的組織を受け入れる結果を指しています。それは神によって人類に向けられた今までになく最も恐ろしい脅かしを含んでいます。黙示録14:9-12によると刻印 (日曜日) は、聖書の第四条の戒め (安息日) と対照的に立っています (出エジプト記20:8-11)。人類の注意は神の律法、特別に安息日の戒め (神の印) に向けられます。
 あわれみのこの最後のメッセージの目的は、人に神の全十条の戒めの拘束力を指し示し、イエス・キリストの来臨のために民を準備することです。それはまたさばきの時が始まり、イエス・キリストを通してのみ罪の自責からの放免が可能であることを指し示しています。三天使によって象徴されているこれらの三つのメッセージは、改革をもたらし、悔い改めと改心へと導きます。その特徴は間違う余地のないものです。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰 (イエスの信仰 (英訳)) を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:12)。
 このあわれみの招きを拒むすべての者は、七つの最後の災いに注ぎだされる、予見された神の裁きに苦しみます (黙示録16章)。
 第三天使のメッセージの宣布は再臨運動の高まりとともに始まり、第三天使の大いなる叫びによって終わります。


31.大いなる叫びと黙示録18章の御使い


 わたしたちは、第三天使の大いなる叫びは1888年ミネアポリスの総会において「キリスト我らの義」のメッセージと共に始まったことを信じています。それは黙示録18:1-4の天使の「光」の始まりでした。
 「テストの時が、わたしたちのまじかに迫っている。なぜなら、第三天使の大いなる叫びが罪をおゆるしになる救い主キリストの義の啓示の中にすでに始まったからである。これはその栄光を全地に満たす天使の光の始まりである (レビュー・アンド・ヘラルド1892年11月22日)。」(セレクテッド・メッセージ1巻p363)
 「 (キリスト我らの義) は世界に与えるようにと神が命じられたメッセージである。それは第三天使のメッセージであり、大いなる声によって宣言されるべきであり、このお方の霊の大いなる降下が伴っている。」(牧師と福音伝道者への勧告p92)
 第三天使のメッセージの宣布が大いなる叫びに盛り上がると、もう一人の御使いがこの働きに加わります。
 「第三天使の使命の宣布に協力する天使は、その栄光で全地を照らすのである。ここに、全世界的で比類のない力を持った働きが予告されている。
 その働きは、ペンテコステの日の働きに似ている。福音の開始にあたって、貴重な種を発芽させるために、聖霊が注がれて『前の雨』が与えられたように、その終わりにおいて、収穫を実らせるために、『後の雨』が与えられるのである。」(各時代の大争闘下巻p381, 382)
 多くの人たちは「キリスト我らの義」のメッセージを受け入れませんでした。そしてこれは深刻な結果をもたらしました。第一次世界大戦 (1914-1918) が勃発したとき、重大な危機が起こりました。第四条と第六条の戒めが公に犯されました。しかしある教会員たちは十戒に忠実でありつづけ、主の霊に導かれて様々な国において同時に改革の働きを進展させました。
 事実、神が最後の警告のメッセージを世界に与えるご自分の働きの終りにあたって用いられるのは、忠実な、黙示録12:17; 14:12と3:14-22に預言された残りの民です。
 「黙示録18章は、教会が、黙示録14:6-12の三重の使命を拒否した結果、第二天使の使命が預言した状態に完全に陥り、そして、まだバビロンにいる神の民が、その中から出るようにと求められる時を示している。これは、世界に発せられる最後の使命 (メッセージ:英訳) である。そしてそれは、その働きを成し遂げる。……
 しかし神は、まだバビロンの中にご自分の民を持っておられる。そして、神の刑罰が下る前に、これらの忠実な人々を呼び出して、彼らがその罪にあずからず、『その災害に巻き込まれないように』しなければならないのである。そこで、この天使―天から下って来、栄光をもって地を照らし、力強い声でバビロンの罪を知らせる天使―によって象徴されているところの運動が起こる。この天使のメッセージと関連して、『わたしの民よ。彼女から離れ去れ』という呼びかけが聞かれる。これらの布告は、第三天使の使命とともに、地上の住民に与えられる最後の警告なのである。」(各時代の大争闘下巻p93, 372)


32.十四万四千人の印する働き


 わたしたちは、聖書が二種類の贖われた人々について述べていると信じています。すなわち、アダムから始まり恩恵期間の終りまで続く大群衆と十四万四千人の数のグループです。
 十四万四千の印する働きは、第三天使のメッセージの宣布と共に始まりました。十戒に対する彼らの服従を通して、彼らは自分たちの忠実さを実証します。彼らは神の印を表わす安息日の遵守によって自分たちを区別します。わたしたちは、印する働きは恩恵期間の終りまで続くと信じています。霊的イスラエルはすべての国民、部族、国語から集められます (黙示録7:2-8; 14:1-5)。
 神の印は贖いのしるしです。イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、このお方の導きの下に自分を置くすべての者は、彼らの品性のうちに変化を経験します。彼らはこのお方の義を受けます。そして聖霊の感化の下で、彼らはますますキリストのようになり、従順の実を実らせます。これらの実の一つは聖安息日遵守であり、それは神と信者の間の結合の印またはしるしとして言及されています (エゼキエル20:12, 20)。
 眠っている印された者たちは、キリストが戻られる直前の特別復活によって、生きている印された信者と共に一つになります。彼らは一緒になって神の声がご自分の民との平和の契約を宣言するのを聞きます。贖いの「初穂」として、彼らはキリストの再臨を目撃し、大群衆がよみがえるのを見、キリストに受け入れられるために彼らとともに昇るのです (ダニエル12:1, 2; 黙示録1:7)。
 「神のしるし、または神の印は第七日の安息日、すなわち創造主の記念日の遵守に表わされている。……
 獣の刻印はこの反対である。それは週の第一日の遵守である。」(教会への証8巻p117)
 「十のすべての戒めの中で第四条の戒めだけが偉大なる律法制定者、すなわち天と地の創造主の印を含んでいる。」(教会への証6巻p350)


33.イエスの再臨


 わたしたちは、イエス・キリストの再臨は全人類が目に見ることができ聞くことのできるものであるということを信じています (黙示録1:7; マタイ24:30; マルコ13:26, 27; 使徒行伝1:9-11; テサロニケ第一4:16, 17)。
 各時代を通じて神の子らは、この栄光に輝く出来事を大きな切望を持って待ちました。「アダムから七代目」のエノクは、それについて宣べ伝えました。アブラハムは「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望」みました。「その都をもくろみ、また建てたのは、神である。」預言者はそれについて預言し、イエスもご自分と一緒にいることができるように教会である花嫁を迎えるためにもう一度来るという確証を与えられました (マタイ5:8; ユダ14, 15; へブル11:8-10; ヨハネ14:1-3)。
 イエスの戻られるのを待っていた者たちは、このお方の出現を見て喜んで叫びます。「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」(イザヤ25:9)。
イエス・キリストの再臨は、贖いの計画のクライマックスです。よみがえった信者と生きている信者は主イエスと共に雲に包まれて引き上げられ、このお方と永遠にいるのです。
 マタイ24章、ルカ21章、マルコ13章でイエスが語られた時のしるしは、キリストの再臨が非常に近いことを示しています (ペテロ第二3:9-12; テサロニケ第一5:2-7; テモテ第二3:1-5; 黙示録19:7, 8)。
 このお方の来られる日時はわたしたちには隠されています (マタイ24:36)。ですから、わたしたちはどんな時にも準備ができているべきです (マタイ24:42-44)。


34.死者の状態


 わたしたちは、罪の報いは死であると信じています。死において人は何も知りません。イエスは死を眠りと比較しておられます (ヨハネ11:11-14)。
 全人類は、善人でも悪人でも、死において無意識の状態にいます (伝道の書9:5, 6; ヨブ14:12)。
 唯一不死であられる神だけが、よみがえりにおいて贖われた者に永遠の命を与えられます (テモテ第一6:15, 16; テサロニケ第一4:13-17; コリント第一15:51-55)。


35.よみがえり


 わたしたちは、イエス・キリストが戻られる時に、死んだ義人は不死の状態でよみがえり、生きている聖徒と共に主イエスによって昇天します (テサロニケ第一4:13-18; ローマ6:5; コリント第一15:51-53; 黙示録20:6)。
 悪人は千年の後よみがえり、彼らの最後のさばきを受けます (黙示録20:5(上句))。


36.千年期


 わたしたちは、千年期は第一のよみがえりと第二のよみがえりの間に渡っていると信じています。
 「キリストがこられる時、悪人は、全地の表面から一掃される。すなわち、主イエスの口の息によって殺され、来臨の輝きによって滅ぼされる。」(各時代の大争闘下巻p440) (テサロニケ第二1:6-8; 2:8; イザヤ24:12, 22)
 この期間は、人の命はこの地上にもはや存在しません。力強い自然災害の結果、地上は完全な荒廃の状態になります (エレミヤ4:23, 24; 25:32, 33)。千年期の間、聖徒は天で生き、キリストと共に支配し堕落した天使と悪人を裁きます。地は荒廃します。サタンと彼の天使たちだけがここで住みます (各時代の大争闘下巻p442; 黙示録 20:1-3)。
 千年期の終りにおいて、キリストはすべての聖徒と共にわたしたちの地に下られます。そのとき悪人は死からよみがえり、その後、聖なる都が下ってきます。そしてサタンと彼の天使たちはよみがえった悪人と共に聖なる都を囲みますが、神は天から火を送って、罪と罪人は永遠に滅ぼされ、それによって地が清められます (黙示録20:4, 5 (上句)), 7-10; マラキ4:1, 3)。


37.贖われた者たちの故郷


 わたしたちは、千年期の後に主が新しい天と新しい地を造られると信じています。この新しい地は、贖われた者たちの故郷となります。新エルサレムはこの永遠の王国の首都となります。王の王がそこに王座を持ちます (イザヤ45:18; 65:17; 黙示録21:1-3)。
 神の永遠の愛に基づき、賢く立てられた贖いの計画を通してすべての贖われた者たちは、病気と苦しみと死の脅しから自由にされて、神の永遠のご臨在のうちに喜びます (イザヤ65:25; ペテロ第二3:13)。
 「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた、『書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』。」(黙示録21:3-5)

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