「信仰と服従によって清められる」


 「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」(ヨハネ15:8)


 多くの者はわたしたちの救い主が生きられたような生涯からしり込みする。彼らは型(パターン)であるお方を真似て、良い働きの中で実を結び、もっと実を結ぶことができるために、神の剪定を忍耐強く耐えるのは、あまりに犠牲が大きいと感じる。しかしクリスチャンが自分自身をキリストのみ手の内にある卑しい道具として見、神が約束された助けに頼りつつあらゆる義務を忠実に行おうと努める時、その人はキリストのくびきを負い、それが負いやすいことに気づく。そしてキリストのために重荷を負い、その重荷を軽いと宣言する。その人は勇気と確信をもって見上げ、「わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたし〔が彼にゆだね〕ているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである」と言うことができる(テモテ第二1:12)。
 もしもわたしたちが自分の道で障害物に会い、忠実にそれを克服するならば、もしもわたしたちが反対と非難に出くわして、キリストの御名によって勝利を得るならば、もしも主の精神で自分の責任を負い、義務を果たすなら、その時本当にわたしたちはキリストの忠実さと力についての尊い知識を得る。わたしたちはもう他人の経験に頼らない。なぜなら自分自身のうちに証を持っているからである。古代のサマリヤ人のようにわたしたちは自分自身で親しく聞いて、「この人こそまことに世の救主であることが、わかった」と言うことができる(ヨハネ4:42)。
 わたしたちがキリストのご品性を熟考すればするほど、またこのお方の救う力を経験すればするほど、ますます自分自身の弱さと不完全さをはっきりと悟り、このお方を自分の力、また贖い主としてますます熱心に見つめるようになる。……キリストを信じる信仰と神の律法への服従によってわたしたちは清められることができ、このようにして栄光の王国で白い衣を着た贖われた人々と、また聖天使たちの社会にふさわしくなることができる。
 キリストと密接なつながりを保ち続け、神の事柄に豊かな経験を持つことは、あらゆるクリスチャンの特権であるばかりでなく義務でもある。その時その人の生涯は良い働きの中で実り多いものとなる。……
 その敬虔さで著名な人々の生涯を読む時、わたしたちはたびたびその人々の経験と偉業が、わたしたちには到底及ばないところにあると考える。しかしそうではない。キリストはすべての人のために死なれたので、地上の両親が自分の子供に良い賜物を与える以上に、このお方は求める者にご自分の聖霊をもっと快く与えて下さる保証をみ言葉の中で受けている。
 預言者使徒も奇跡によってクリスチャンの品性を完成したのではない。彼らは、神が自分たちの手の届く範囲におかれた方法を用いた。そして同じ努力をするすべての者は同じ結果を手に入れる。(清められた生涯82〜84)

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