「信仰の目を持ってイエスを眺める」


 「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」(コリント第一15:57)


 信仰によって、勝利する者たちのために用意されている王冠を見なさい。ほふられ、わたしたちを神に贖ってくださった小羊こそはふさわしい、ふさわしいと歌う贖われた者たちの歓喜の声を聞きなさい。これらの光景を現実として考えるよう努力しなさい。
 最初の殉教者であるステパノは、もろもろの支配と、権威と、また天上にいる悪の霊に対する恐ろしい戦いの中で、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と叫んだ(使徒行伝7:56)。彼に世の救い主が、天から最も深い関心をもって彼をご覧になっておられるのが示された。そしてキリストのみ顔の栄光の光がステパノの上に非常に明るく輝いたので、彼の敵たちでさえ、彼の顔が御使のように輝くのを見たのであった。
 もしわたしたちが、自分の思いがもっとキリストと天の世界を考えるようにするならば、わたしたちは主の戦いを戦う際に、力強い励みと支えを見出すのである。世の誇りと愛着は、わたしたちがもうまもなく、わたしたちの家となるより良い地の栄光を考えるとき、消え失せてしまう。キリストの麗しさのほかに、地上のどんな魅力的なものもほとんど価値がないように思えるようになる。
 だれ一人として、自分の側で努力することなく、神の愛の確証を得られると想像してはならない。思いがあまりにも長く地上のことばかり考えるままにされてきた場合、思想の習慣を変えるのは難しいことである。目が見ること、耳が聞くことが、あまりにもしばしば注意を引き、関心を奪ってしまっている。しかしもしわたしたちが神の都に入りたいのであれば、そしてイエスとその栄光を眺めたいのであれば、わたしたちはここで、信仰の目をもってこのお方を眺めるのに慣れなくてはならない。キリストのみ言葉とご品性が、しばしばわたしたちの思想と会話の主題となるべきであり、また毎日特にこれらの聖なる主題を祈りと共に瞑想するためにある一定の時間を取っておくべきである。
 聖化は日毎の働きである。だれ一人として、自分たちが神のご要求の一つでも踏みにじっていながら、このお方が自分たちを許し、祝福してくれるだろうなどと信じて、自らを欺いてはならない。知っている罪を故意に犯すとき、聖霊の証するみ声は沈黙し、魂は神から分離する。
 宗教的な感情がどんなに高揚させるようなものであったとしても、イエスは神の律法を軽視する心の中に宿ることはおできにならない。神はご自分を尊ぶ者たちを尊ばれる。……ここにキリストの助けの必要がある。人間の弱さは神の力と結びつき、そして信仰は、「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」と叫ぶのである(コリント第一15:57)。(清められた生涯91〜93)


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