「イエスなしでは何もできない」


 「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。」(コリント第一1:30)


 多くの人が自分自身を愛するように隣人を愛することは不可能であると考えるが、これこそキリスト教の唯一本物の実である。他の人々への愛は主イエス・キリストを着ることであり、見えざる世界と歩み、働いていることが現れたものである。わたしたちはこのようにして信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめ続けるのである。
 愚かな金持ちに与えられた厳粛な警告が、終りの時代のすべての人のための十分な警告でなければならない。すべての者を利己心から離れさせるために、また人と人の間の友情と兄弟愛の親しいきずなを定着させるために、教訓につぐ教訓が主によって与えられている。主は信者の心が強い同情のきずなで共にぴったりと組み合わされることを望まれた。こうしてご自身にあっての一致ができるためであった。彼らはイエス・キリストの徳による永遠の命を求めつつ、栄光に満ちた望みのうちに共に喜ぶべきである。もしもキリストが心に内住しておられるなら、キリストの愛はその所有者を通して他の人々に放散し、心と心を結びつける。
 キリストの恵みがクリスチャンの唯一頼るものでなければならず、そうである時、その人はキリストが自分を愛されたように兄弟を愛する。その時その人は「来たれ」と言うことができ、その人々に神と和解するようにと懇願しつつ、魂に嘆願し、しきりに求めることができる。その人の感化はますます確固たるものとなり、自分のために十字架にかかられたキリストに自分の生涯を捧げる。
 愛が全うされるところでは、律法が守られ、自己のための場所がない。最高に神を愛する人々は、自分たちのために命を与えて下さったお方のために働き、苦しみ、生きる。わたしたちはキリストの義を自分自身のものとすることによってのみ律法を守ることができる。キリストは「わたしから離れては、あなたがたはなにもできない」と言われる。わたしたちが天の賜物であるキリストの義を受ける時、神の恵みがわたしたちのために備えられており、人間の手段は無力であることが分かる。イエスはわたしたちの弱さを助けるために、わたしたちに力強い励ましを与え、わたしたちの思いを啓発し、わたしたちの心を清め、気高くするために、非常時に備えて大いに聖霊を与えられる。キリストはわたしたちの知恵となり、義と聖化と贖いとになられる。
 クリスチャン生涯の初めから終りまで、キリストなくしては一歩といえども成功する歩みはできない。キリストは、わたしたちと共に絶えずいるようにと、御霊を送られたので、キリストをこの上なく信頼することにより、わたしたちの意志をこのお方に捧げることにより、わたしたちはこのお方が行かれるところへはどこへでもついて行くことができる。(レビュー・アンド・ヘラルド1894年6月26日)
 聖霊は、その聖なる感化を受ける余地のあるすべての心に働いてくださる。キリストの義はそのような人の前に行き、主の栄光はそのしんがりとなる。(手紙192, 1902年)

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