「キリストは宇宙の富を提供」


 「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。」(コリント第二4:6)


 人類は罪を犯したために、神から追放されてしまった。救済の計画がなかったなら、神よりの永遠の別離と、常夜のはてしないやみが、人類の運命となったであろう。しかし、救い主の犠牲によって、再び神と交わることができるようになった。われわれは、自分だけでは、神のみ前に近づくことも、神のみ顔を仰ぎ見ることもできない。ただ救い主イエス・キリストの中にあって、神を仰ぎ見ることも、また神と交わることもできるのである。「神の栄光の知識」は「イエス・キリストの顔」に表わされている。「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ」られたのである。……
 「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」とある。われわれの救済のために払われた代価であるキリストの生命と死は、生命の約束と保証、また知識の宝庫を再び開くかぎであるばかりでなく、それはエデンの聖者たちが思っていたよりも、もっと広くてもっと高い神のご品性の現われである。
 キリストは天を人に開かれるが、一方また人の心は、キリストのおあたえになる生命によって、天にむかって開かれる。罪は人を神から離れさせるばかりでなく、人の魂から神を知ろうとする願いと能力とを滅ぼしてしまう。こうした罪の働きをすべて無力にしようとするのがキリストの働きである。キリストは、罪によってまひした魂の能力や暗くなった心やゆがめられた意志を活気づけ回復する力を持っておられる。キリストは宇宙の宝庫をわれわれに開いてくださる。これらの宝をみとめ、活用する能力が、キリストから授けられるのである。
 キリストは、「すべての人を照らすまことの光」である。人はみなキリストを通して生命を持っているが、同じようにどんな魂もキリストを通して幾らかの天の光が与えられる。どんな人の心にも、知的な能力ばかりでなく、また霊的な能力、すなわち正しいことをみわける能力、良いことをしようとする欲求がある。しかし、こうした原則に対して、一つの相反する能力が戦っている。善悪を知る木の実を食べた結果は、すべての人間の経験にあらわれている。人の性質には、悪への傾向、すなわち自力だけでは抵抗し得ない一つの力が働いている。この力に抵抗し、魂の奥底に唯一の価値を感じている理想を達成するためには、ただ一つの力に助けを求めてすがるよりほかに道はない。その力とはキリストである。この力と協力することが、人にとって最大の必要である。(教育20, 21)
 キリストが、天父の代表者すなわち神と人とをつなぐ輪の役目をはたしておられる。キリストは人類の大教師である。彼はさらに男女を、ご自身の代表者として任命された。(教育26)

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