「自己は隠れ、キリストがあらわされる」


 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19, 20)

 クリスチャンがバプテスマの厳粛な儀式を受ける時、宇宙における三位の最高権力、すなわち御父、御子、聖霊は、このクリスチャンが神に栄誉を帰すために努力をする時、彼のためにその力を働かせることを自ら誓いつつ、彼の行為を是認される。彼はキリストの死の様に葬られ、このお方のよみがえりの様に起される。……
 天の三位の神は、そのクリスチャンが求めるすべての援助を供給するとご自身にかけて誓われる。御霊は石の心を肉(柔らかい)の心に変える。そして神のみ言葉にあずかることによって、クリスチャンは神の形に同化する経験を得る。信仰によってキリストが心のうちに宿る時、クリスチャンは神の宮となる。キリストは罪人の心の中には宿らないが、天の感化に敏感な人の心には宿られる。
 真のクリスチャンの生涯から輝きでる光はその人がキリストと一つであることを証する。自己が見えなくなり、キリストがあらわされる。……「わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことのみ姿を見るからである」(ヨハネ第一3:2)。その時、その生涯がキリストのうちに隠されていた人々、この地上で信仰の良き戦いを戦った人々は、神の王国で贖い主の栄光に輝く。
 兄弟姉妹方、あなたがたに対する神のご目的は、あなたが他の人々をより良くする生涯、すなわち、栄光の希望であるキリストが心のうちに形造られているのを示す生涯を送ることである。あなたが使徒パウロと共に、「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」と言うことができることが、神のご目的である(ガラテヤ2:20)。あなたの魂の救いをあなたのために成し遂げてくださる贖い主、命の与え主を信頼し、キリストの愛のうちに完全に満足して安らぎつつ、あなたが、ますますこのお方に引き寄せられ、近づく時、あなたは目には見えないお方を見ることに耐えるということが何を意味するのかが分かる。……キリストが与えられる安らぎは金や銀や宝石よりも無限に価値のある賜物である。……
 わたしたちの生涯は、わたしたちが神の支配下にある時だけ純潔であり、わたしたちがこのお方と聖なる交わりを持つ時だけ幸福である。最も豊かな経験をしてきた人々が持つ反映の輝きは義の太陽の光の反映である。イエスに最も近く生きている人は最も明るく輝く。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1905年8月16日)

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