「祈りを通して得る神の御力」


 「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)


 イエスの一生ほど骨折りと責任で多忙な生活はほかになかった。それなのに、祈っておられるイエスの姿がどんなにかしばしば見受けられたことだろう。彼はどんなにしじゅう神とまじわられたことだろう。キリストの地上生涯の歴史には、次のような記録がいくつもみられる。「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」  「おびただしい群衆が、教えを聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた」(マルコ1:35; ルカ5:15, 16; 6:12)。
 他人の幸福のために全的にささげられた生涯において、救い主は、旅の往来と、毎日毎日ご自分についてくる群衆から退くことが必要であることに気がつかれた。ひっこんでだれにも邪魔されないで天父とまじわるために、イエスはたえまない活動の生活と人間のいろいろな必要との接触から離れられねばならなかった。イエスは、われわれと同じおかた、われわれの必要と弱さを共にされるおかたとして、全的に神によりたのまれた。そして義務と試練に対して張り切って出て行くために、イエスは、ひそかな祈りの場所で、神の力をお求めになった。罪の世にあって、イエスは、魂の戦いと苦しみに耐えられた。主は、神とまじわることによって、ご自分に重くのしかかっている悲しみの重荷をおろすことがおできになった。そこにイエスは、慰めとよろこびをみいだされた。
 キリストを通して、人類の叫びは限りなくあわれみ深い天父に達した。人としてキリストは、人性と神性とを結合する天来の電流によって、ご自分の人性が充電されるまで、神のみ座に嘆願された。世の人々にいのちを与えるために、イエスはたえまないまじわりを通して神からいのちを受けられた。イエスの経験がわれわれの経験となるのである。
 「さあ、あなたがたは、人を避けて」とイエスはわれわれに命じられる(マルコ6:31)。イエスのみことばに留意するとき、われわれはもっと強く、もっと役立つ者となる……
 神の訓練を受けているすべての者のうちには、世とその慣例や習慣に一致しない生活があらわされる。だれでもみな、神のみこころを知るために、個人的な経験をする必要がある。われわれは、神が心に語られるのを個人的にきかねばならない。ほかの声がみな沈黙して、静けさのうちに神の前に待つとき、魂の静寂は神のみ声を一層明らかにする。神は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とわれわれに命じておられる(詩篇46:10)。ここにだけ真の休息がみいだされる。これこそ神のために働くすべての者にとって効果的な準備である。あわただしい群衆の中にあって、人生の激しい活動の緊張のうちにあって、このように活気づけられた魂は、光と平和の雰囲気にとりかこまれる。その生活はかぐわしい香りを放ち、人々の心に達する神の力をあらわすのである。(各時代の希望中巻100〜102)

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