「信仰によって卓越さが発達する」


 「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)


 わたしは、救われるために、何をすべきかと、あなたは、おたずねになるであろうか。それでは、あなたは、まず研究にはいるにあたって、先入観、すなわち自分のもっている先天的、後天的の考えを捨てなければならない。自分の意見を支持する目的で、聖書を探究するならば、決して真理を発見することはできない。主は、いったい、なんと言っておられるかということを学ぶために探究しなければならない。探究しているうちに、強く心に感銘を受け、たとえ、自説が真理と一致していないことがわかっても、それに合わせようとして、真理を曲解せずに、与えられた光を受け入れなければならない。神のことばの中から驚くべきものを見ることができるように、心を開かなければならない。
 キリストを世の救い主として信じるためには、よく磨かれた知力がなければならない。そして、その知力は、天の宝を見わけて、その真価を認め得る心に支配されたものでなければならない。この信仰は、悔い改めと心の変化とも切り離すことができない。信仰をもつことは、発見された福音の宝に含まれているすべての義務とともに、福音を受けいれることである。
 「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。人間はいろいろと推測したり想像したりはできても、信仰の目がないならば、宝を見ることはできない。キリストは、このはかり知れない尊い宝を、わたしたちのために確保するために、その生命をお与えになったのである。しかし、キリストの血を信じる信仰による新生が伴わないならば、それは滅び行く魂にとって、罪の許しにも宝にもならないのである。
 神のことばの真理を理解するためには、聖霊の光に照らされなければならない。太陽が暗黒を追いやって、光を降り注ぐのでなければ、自然界の美を見ることができない。そのように、神のことばという宝も、義の太陽の輝かしい光によってあらわされなければ、認めることはできない。
 無限の愛と慈悲によって、天から送られた聖霊は、キリストに絶対的信仰をいだいているすべてのものに、神に関することを啓示する。聖霊は、魂の救いに関する重大な真理を、人の心に強く印象づける。こうして生命の道は、ふみあやまることができないほど明らかにされるのである。わたしたちが聖書を研究するときには、神の聖霊の光がみことばを照らし、わたしたちがみことばの宝をみとめて、理解できるようになることを祈り求めなければならない。(キリストの実物教訓88, 89)
 キリストを信じる信仰によって、品性のあらゆる欠陥が補われ、あらゆる汚れが清められ、あらゆる欠点が直され、そしてあらゆる美徳が発達させられるのである。(教育304)

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