「信仰はすべての魂にとって盾である」


 「その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。」(エペソ6:16)


 信仰とは神に信頼すること、すなわち神がわれわれを愛し、われわれの幸福にとって最善であるものをご存知であることを信じることである。そのときわれわれは自分自身の道を選ばず、神の道を選ぶようになる。信仰によってわれわれは、無知の代わりに神の知恵を受け入れ、弱さの代わりに神の力を、罪の代わりに神の義を受け入れる。われわれの生命、われわれ自身がすでに神のものである。信仰は神の所有権をみとめ、その祝福を受け入れる。真実と誠実と純潔は人生の成功の秘訣としてさし示されている。これらの原則をわれわれに所有させるのが信仰である。
 善への衝動や抱負はすべて神の賜物である。信仰によって神から与えられる生命だけが真の成長と実力を生ずることができる。どのように信仰を働かせるべきかということを明らかにしなければならない。神の御約束にはすべて条件がある。われわれが神のみこころをよろこんで行なうとき、神のすべての力はわれわれのものである。神が約束してくださった賜物はすべての約束自体の中に含まれている。「種は神の言である」とある。かしの木がどんぐりの実の中に含まれているのと同じように神の賜物もその御約束の中に確実に含まれている。約束を受けるときに、賜物はわれわれの手中にある。
 神の賜物を受け入れることのできる信仰は、それ自体が賜物であり、それはすべての人に幾分か与えられている。神のみ言葉をわがものとするために信仰を働かせるときに信仰は成長する。信仰を強めるためには、神のみ言葉にたびたび接触しなければならない。
 聖書研究においては、生徒が神のみ言葉の力をみとめるように導くべきである。創造の時に「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」とある。……
 人間的な見地からすれば、人生はだれにとってもまだ通ったことのない道である。深い経験という点からいえば、人生はひとりびとりが自分で歩かなければならない道である。われわれの精神生活には他人はどこまで行っても入りこむことはできない。幼い子供がおそかれ早かれ自分自身の道を選び、人生の問題を自ら永遠に決定しなければならない旅に出発するにあたって、われわれは確かな案内者であり、かつ助け主である神に子供の信頼を向けさせるように熱心に努力しなければならない。
 誘惑から保護し、純潔と真理への霊感をあたえるものとして、神のみ前にあるという意識に匹敵するほどの力を持ったものは他にない。「すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである」とある。神は、目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者」である。この思いがエジプトの腐敗の中にあるヨセフを守ったのである。誘惑のささやきに対して彼は「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」ときっぱり答えた。心の中に信仰が宿っているなら、どの魂もこのように守られるのである。(教育299〜302)

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