「信仰はわたしたちを王家の家系にふさわしい者とする」


 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(へブル11:1)


 自分自身はどんなに無力でも、神のみ言葉に信頼するときに全世界の勢力に対抗し得た例は少なくない。純潔な心の持ち主で、聖なる一生を送ったエノクは、信仰を堅く保って、腐敗とあざけりに満ちた世代に対して義の勝利を納めた。ノアとその家族は当時の人々――最も偉大な知力と体力を持ちまた道徳的に最も堕落した人々に対抗した。紅海に臨んだイスラエルの民は、おびえた無力な奴隷の群れであったが、地球上で最大の国家の軍勢に対抗した。神から王位を約束されていた羊飼いの少年ダビデは、国王としての権力をかたく握って離さないサウルに対抗した。燃える火の中のシャデラクとその仲間は、王座のネブカデネザルに、ししの群れの中のダニエルは王国の高い地位にある敵どもに、十字架上のイエスは、ローマの総督にさえ自分たちの意志を強行させようとするユダヤの祭司や役人たちに、鎖につながれて罪人として処刑されたパウロは世界帝国の暴君ネロに、それぞれ対抗したのであった。
 このような例は、聖書だけに見られるとはかぎらない。人類の進歩の歴史にはどこにでもこのような例がたくさんある。ワルデンセスやユグノー教徒、ウィクリフやフス、ジェロームやルーテル、チンダルやノックス、チンツェンドルフやウェスレーその他多くの人々が悪を支持する人間の権力や政治に対して神のみ言葉の力を立証したのである。こういう人々こそ世の真の貴族である。彼らこそ世の王統である。今日の青少年たちは、この王統の一族となるように召されているのである。
 人生の小事においても大事における場合と同じく信仰が必要である。日常のすべての利害関係や職業において、神により頼んで変わらないときに、神の力が実際にわれわれをささえるのである。……
 おく病な子供は恐怖心のために人生を重荷に感じるが、それは神のみ前にあるという意識によってのみ払いのけることができる。「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる」という御約束を彼の記憶にきざみこむがよい。山の都市で、エリシャと武装した敵の軍勢との間を天使の大軍勢がとりまいていたというふしぎな話を彼に読ませるがよい。死刑を宣告されて獄中にあったペテロに神の天使があらわれ、武装した番兵と重い戸とかんぬきのかかった鉄の大門を通りすぎて、この神のしもべを安全に連れ出したことを読ませるがよい。……
 今日も神は、神の能力の器となる信仰心のあるところには、昔働かれた時と同じようにめざましく働かれるのである。(教育300〜303)

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