「わたしたちはキリストの愛と喜びを表すべきである」


 「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」(ローマ15:13)


 聖霊という大きな無限のたまものの中には、天のすべての資源が含まれている。神の恵みの富が、地上の人びとに流れないのは、神の側に何か制限があるためではない。喜んで受けさえするならば、だれでも聖霊に満たされるのである。
 神の恵みの富、はかり知ることのできないキリストの富を世界に伝えるための神の生きた通路になるという特権は、だれにでも与えられている。キリストは、他の何ものにもまして、キリストのみ霊と品性とを世界に代表する器があらわれるのを望んでおられる。人間によって救い主の愛があらわされることほど、世界が求めているものはない。人の心に喜びと祝福を与える清い油を注ぐことができる管を、全天は待っているのである。
 教会が世の光であるイエスの光を受け、インマヌエルの栄光に輝き、全く変えられた体となることができるように、キリストはあらゆる準備をなさった。彼は、すべてのクリスチャンが光と平和の霊的雰囲気に包まれることを望んでおられる。そして、わたしたちがキリストご自身の喜びを、わたしたちの生活のなかにあらわすことを願っておられるのである。
 み霊の内住は、天の愛があふれ出ることによってわかる。神の満ちた徳は、献身した代表者を通して流れ出て、人びとに与えられるのである。
 義の太陽は「その翼には、いやす力を」備えている(マラキ書4:2)。そのように、真の弟子からは、だれからでも、生命と勇気と援助と真のいやしを与える感化が発散するのである。
 キリスト教は、ただ罪の許しを与えるだけではない。それは、まずわたしたちの罪を取り去って、そのあいたところを、聖霊の徳で満たすのである。これは、神の光を受けて、神にあって喜ぶことである。自己を全くむなしくして、絶えず、キリストの臨在の祝福を受けることである。キリストが魂を支配なさるときに、そこには、純潔と、罪からの自由がある。福音の計画の栄光と、その満ち満ちた完全さとが生活の中に完成されるのである。救い主を受け入れることによって、完全な平和、完全な愛、完全な確証の喜びを味わうことができる。神が確かにみ子を世の救い主として、世界に送られた証拠として、わたしたちの生活のなかに、キリストの品性の美とかぐわしさがあらわれるのである。(キリストの実物教訓394〜396)
 信じることのうちに平安があり、聖霊のうちに喜びがある。信じることは平安をもたらし、神に信頼することは、喜びをもたらすのである。(教会への証2巻319, 320)


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