「聖書研究によって得られる思いの修練」


 「また、へやは知識によってさまざまの尊く、麗しい宝で満たされる。」(箴言24:4)


 肉体はもちろん心も魂も、活動によって力を得られるのが神の法則である。発達させるのは運動である。この法則と一致して、神は知性と霊性の発達の方法を聖書の中にお与えになっている。
 聖書の中には、人が現世のためにあるいは来世のためにふさわしい者となるために理解しなければならないあらゆる原則が含まれている。しかもそれらの原則は、どんな人にも理解できるのである。聖書の教えを理解しようとする心がけさえあれば、その一節を読むだけで必ず何か有益な思想を得ることができる。しかし時々思い出したように断片的に聖書を研究したのでは、その最もとうとい教えを得ることは不可能である。聖書を急いで不注意に読む人は、そこに提示されている大きな真理の体系を認めることができない。……われわれは大きな全体を構成しているところの数々の真理を、「ここにも少し、そこにも少し」さがし出して集めなければならない。
 このようにさぐり出され、集められた真理は、互いに調和していることがわかる。四福音書はおのおの互いに補足し合い、一つの預言は他の預言の説明であり、一つの真理は他の真理の発展である。ユダヤの制度の型は、福音によって明らかにされている。神のみ言葉の中にあるすべての原則はそれぞれに立場を持ち、すべての事実はそれぞれの意義をもっている。こうして全体の構成は、計画においても実行においても、その創始者である神について証言している。このような構成は、ただ限りない神の知恵だけが考え出すことも作りだすこともできるのである。
 いろいろな部分をさがし出してその関係を研究するときに、人の頭脳の最高の能力は盛んに活動する。このような研究に従事するときに知力は必ず発達するのである。
 聖書研究の知的な価値は、真理をさがし出してこれを集めることだけにあるのではない。それは提示されたテーマを把握するのに必要な努力の中にもある。日常の平凡事にばかり心を奪われていると、心はいじけ、衰弱する。崇高かつ遠大な真理を理解するために心を働かせなければ、それはついには発達の能力を失ってしまうであろう。 心の退化を防ぎ、その発達を促すには、神のみ言葉の研究にまさるものはない。知的な訓練の方法として、聖書は他のどんな本よりも、また他のすべての本を合わせたよりも効果がある。……天来の啓示によるすばらしい真理を把握するための努力は他のどんな研究よりも、知的な能力を与えるのである。このようにわれわれの心が限りない神のみこころと接するときに、それは大きくそして強くならざるを得ないのである。(教育132, 133)

ブログランキングに参加しています。

よろしくお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村