「神の宮」

 「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」(コリント第二5:15)

 人は神の作品であって、高くて聖なる目的のために創造されたこのお方の傑作である。そして、神は人間という宮のあらゆる部分にご自分の律法を記そうと望んでおられる。すべての神経、筋肉、すべての精神的、また肉体的才能は、純潔に保たれなければならない。
 神は肉体がご自分の霊の宮となるように計画された。そうであれば、すべての魂には何と厳粛な責任が負わせられていることであろう。もしわたしたちが自分たちの肉体を汚すなら、わたしたちは自分の身を害しているばかりでなく、他の多くの人をも害しているのである。……
 キリストは神の道徳的みかたちが人類に回復されるために死なれた。それは男女が世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。わたしたちは自分という存在のどんな能力も利己的な満足のために用いてはならない。なぜなら、わたしたちのあらゆる力はキリストに属するものであり、このお方の栄光のために用いられるべきだからである。……
 人間という家、すなわち神の建物は、厳密によく見張られた警戒を要している。ダビデと共にわたしたちは「わたしはおそるべく、くすしく造られました」と叫ぶことができる。神の作品は保存されなくてはならない。それは、全天の宇宙と背信した人類が、男女は生ける神の宮であるということを知るためである。
 神が要求しておられる品性の完全は、全存在が、聖霊が住まわれるための宮にふさわしいものとなることである。主は全人格の奉仕を要求しておられる。このお方は男女が、ご自分が彼らにそのようになることを可能にしてくださった通りのものになるよう、望んでおられる。人間の機能のある部分だけが、用いられるのでは十分ではない。あらゆる部分が働かなくてはならない。さもなければ、その奉仕は不十分なのである。……
 肉体的な命は、注意深く教育され、培われ、発達させられなければならない。それは、男女を通して、神の性質が満ち満ちて表れるためである。神は人間がご自分のお与えになった知性を用いることを期待しておられる。このお方は、彼らがすべての判断能力をご自分のために用いることを期待しておられる。彼らはすでに定められているとおり、良心に最高位を与えるべきである。精神的、肉体的な能力は、その愛情と共に培われて、最高の能力にまで到達しなければならない。こうしてキリストが世に表されるのである。……
 神はご自分が人間にお与えになった器官や機能が一つでも、なおざりにされ、乱用され、あるいは健康で効果的に働くことができるはずなのにそうさせなくすることをご覧になって、喜ばれるであろうか。そうであれば、信仰の賜物を培いなさい。勇気を出しなさい。そして魂の宮を損なうあらゆる習慣に打ち勝ちなさい。わたしたちは神にまったく依存している。そしてわたしたちの信仰は、わたしたちを取り扱われる神のご目的や、あるいはこの取り扱いの結果がわからなくても、信じることによって強められるのである。信仰は、わたしたちをこのお方にあって全き者とすることができる唯一の力をつかみつつ、前にそして上へと、来るべき事を指し示している。(レビュー・アンド・へラルド1900年11月6日)
 
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