「家庭礼拝はなおざりにされてはならない」

 「わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」(テモテ第一6:17)


 わたしたちはもし自分たちの家庭生活と社会の交わりがクリスチャン宗教の原則によって支配され、キリストの柔和と単純さを例証しているならば、もっと幸福で、もっと有用な者となる。……訪問客に、わたしたちが自分たちの快活さや、同情、また愛によって周囲にいる人たちを幸せにしようとしているのだということがわかるようにしよう。
 わたしたちが自分の来客に快適さと喜びをもたらそうと努力するとき、神に対する自分たちの義務を見過ごすことがないようにしよう。祈りの時間はどんなことがあっても、なおざりにされるべきではない。……タ方の早い時間に、あなたが急がず、理解をもって祈ることができるとき、あなたの嘆願を捧げ、幸福で感謝に満ちた讃美のうちにあなたの声を上げなさい。クリスチャンを訪問するすべての人が、祈りの時間こそ、一日のうちで最も神聖で、最も尊く、そしてもっとも幸福な時間であることがわかるようにしなさい。そのような模範は効果を及ぼさずにはいない。
 このような祈りの時間は、参加するすべての人に精錬し、高尚にする感化を及ぼす。最も不注意な者の心のうちに、正しい考え、また新しくてより良い願いが呼び覚まされる。祈りの時間は、疲れた精神にありがたい平安と感謝をもたらす。なぜなら、クリスチャン家庭の雰囲気そのものが、平安と安らぎの雰囲気だからである。
すべての行動において、クリスチャンは自分のご主人をあらわし、このお方の奉仕が魅力的に見えるよう努めるべきである。……
 非常にたくさんの人が悩む試練と困惑は、十中八九想像か、もしくは自分たちの間違った行動のために自らもたらしたものである。彼らはこれらの試練について語るのをやめ、またそれらを誇張するのを「やめる」べきである。クリスチャンはすべて心労や不安を生じさせる事を神にゆだねることができる。わたしたちの同情深い救い主にとって、注意を払うのに小さすぎることはないし、このお方が担うのに、大きすぎることはない。
 そうであれば、わたしたちは自分たちの心と家庭を整えていよう。自分の子供たちに、主を畏れることが知恵の始まりであることを教えよう。そしてわたしたちは快活で、幸福で、よく秩序立てられた生活によって、「わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる」お方に対する感謝と愛を表現しよう。しかし、すべてにまさって、わたしたちは自分の思想と自分たちの心の愛情を、罪深い人間のために苦しまれ、それによってわたしたちに天を開いて下さった愛する救い主に固定させよう。
 イエスに対する愛は隠すことができない。かえって、それはあらわれ、感じられる。それは驚くべき力を発揮する。それは臆病者を大胆にし、怠惰な者を勤勉にし、無知な者を賢くする。それはどもる舌を雄弁にし、そして眠っていた知性を新しい生活と活力に目覚めさせる。それは落胆していた者を希望にあふれさせ、陰気な者を喜びで満たす。キリストに対する愛は、それを持っている人がこのお方のための責任と労苦を受け入れるように、そしてそれらをこのお方の強さのうちに担うようにと導くのである。(サインズ・オプ・ザ・タイムズ1885年12月17日)

よろしくお願いいたします。

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