「聖書は家族にとって神のみ声である」

「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり」(詩篇127:3)


 親に改革が必要であり、牧師に改革が必要である。彼らの家庭に、神が必要である。もし彼らが変化を希望するならば、彼らの家庭に神の言葉を入れ、その勧告に従わなければならない。それは、彼らに語る神の声であり、それに絶対に服従すべきであることを、彼らは子供たちに教えなければならない。親は忍耐深く子供たちを教え、神を喜ばせるためには、どのように生きるべきかを、やさしく、たゆまず教えなければならない。こうした家庭の子供たちは、無神論の詭弁に立ちむかう準備がある。彼らは、聖書を彼らの信仰の基礎として受け入れた。彼らは、懐疑論の潮流に流されない土台を持っている。
 あまりにも多くの家庭で、祈りがなおざりにされている。親たちは、朝夕の礼拝をする時間がないと考えている。彼らは、植物を繁茂させる輝く日光や雨、聖天使の保護などの豊かな恵みに対して、神に感謝する時間を少しもさくことをしない。彼らは、神の助けと導きを求め、家庭にイエスおとどまりになるように、祈りをささげる時間を持たない。彼らは、神についても天のことについても考えず、牛馬のように働く。彼らが何の望みもなく、失われることのないように、その贖いとして、神のみ子は生命をお与えになった。人間は、それほど尊い魂を持っている。それだのに、彼らは滅びてしまう獣と同様に、神の大きな恵みに感謝することをしない。
 昔の父祖たちのように、神を愛すると告白するものは、どこに天幕を張っても、そこに主の祭壇を築かなければならない。すべての家が祈りの家でなければならない時があるとすれば、それは今である。父親も、母親も、自分たちと子供たちのために、けんそんに願いをなし、心を神にむけなければならない。父親は、家庭の祭司として、朝夕の犠牲を神の祭壇にささげ、妻と子供たちは、祈りと賛美に加わろう。イエスは、そうした家庭に喜んでとどまられる。
 すべてのクリスチャンの家庭から、清い光が輝き出なければならない。愛は、行動に現わされるべきである。愛は、家庭のすべての交わりにあふれ出て、思いやりとおだやかさと、自分を忘れたやさしさとなってあらわれるべきである。この原則が実行されている家庭がある。それは、神が礼拝され、真の愛が支配している家庭である。これらの家庭から、朝夕の祈りはこうばしいかおりのように、神のみもとにのぼり、神の恵みと祝福は朝露のように祈る者の上に降るのである。(人類のあけぼの上巻147〜149)
 家庭で品性を美しくするものは、天の住まいにおいても美しい品性の持ち主です。(家庭の教育521)


よろしくお願いいたします。

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