「悔い改めた人々に許しを得させよ」


 「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」(ルカ6:37)


 主は自分の罪を悔い改める者をすべて許される。このお方が離れるのは、悔い改めない者、自信をもって自分自身を支持する人々からである。このお方が涙ながらの悔い改めの声に耳を傾けるのを拒まれることは決してない。悔い改め、悲しんでご自分のところへ来るへりくだった魂からみ顔をそむけられることは決してない。……
 神のみ言葉を信じる教会員は、へりくだり、自分の罪を告白する魂を、決して無関心に見過ごしたりはしない。悔い改めている魂に喜びを取り戻させなさい。キリストは「悔い改めます。わたしの罪を後悔しています」というすべての者を許すために、この世に来られた。兄弟が「神はわたしを許してくださいました。あなたは許してくれますか」と言う時、その人の手をもって「わたしが許されたいと願っているように、許します」と、あなたは言うだろうか。
 「だから、あなたがたはこう祈りなさい、『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日毎の食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。国とちからと栄えとはかぎりなくあなたのものだからです。アーメン。』もしも、あなたがたが、人のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
 敵が破壊しようとあらゆる方法で努力している時、教会員は、悔い改めて許しを求めている人を落胆させるために、敵と協力するのだろうか。神は誰をも裁判官にはしておられない。「さばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。……狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」
 「さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか』。イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。」あなたはこの教えをあなたの心に深く、きざみ込ませるのであろうか。(手紙199, 1905年)

よろしくお願いいたします。

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