「賢いおとめたちは自分たちの光を輝かした」


 「思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。」(マタイ25:4)


 たとえの中で、思慮深い女たちは、あかりとともに、器の中に油を持っていた。あかりは、彼女たちが待っていた夜の間、あかあかと燃え続けた。それは、花婿を祝う光を、いよいよ輝かしくしたのである。その光は、暗黒の中に輝いて、花婿の家と婚宴の場所への道を照らしたのである。
 そのように、キリストの弟子たちは、世界の暗黒に光を輝かさなければならない。神のことばは、聖霊の働きによってそれを受けいれる人の心を変える光になる。人びとの心に、みことばの原則を植えつけることによって、聖霊は、彼らの心の中に神の性質をめばえさせる。神の栄光の光、すなわち、神の品性が、神に従う者のなかに輝き出なければならない。こうして、彼らは、神に栄えを帰し、花婿の家、すなわち神の都と小羊の婚宴への道を照らすのである。
 花婿が来たのは、真夜中であった。――最も暗い時であった。そのように、キリストがおいでになるのも、この地上歴史の最も暗黒の時である。ノアやロトの時代の状態は、人の子の来られる直前の世界の状態をあらわしていた。聖書は、この時のことをさして、サタンが全力を傾け、「あらゆる不義の惑わし」をもって働くといっている(テサロニケ第二2:9, 10)。この最後の時代に暗黒、様々の誤り、異端、まどわしなどが急速に増加したことを見ても明らかにサタンが働いていることを知ることができる。サタンは、ただ世俗の人びとを捕えるばかりでなくてわたしたちの主、イエス・キリストの教会であると称しているものをもあざむいている。大背教は、一寸先も見えない真夜中の暗黒のようになることであろう。これは、神の民によっては、試練の夜、嘆きの夜、真理のために迫害を受ける夜となる。しかし、その暗黒の夜から、神の光が輝くのである。
 神は「やみの中から光」が照りいでるようになさった(コリント第二4:6)。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:2, 3)。そのように霊的暗黒の夜に、神は「光あれ」と仰せになる。神の民には、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」と言われる(イザヤ書60:1)。
 「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」(イザヤ書60:2)。(キリストの実物教訓390, 391)

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