「神への讃美には抗しがたい力がある」

 「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。」(マラキ3:16)


 クリスチャンには、栄光の御座から永遠の光線を集める喜び、またこれらの光線をただ自分の道ばかりでなく、自分と交わっている人々の道にも反射するという喜びが与えられている。希望と励まし、また讃美と親切で快活な言葉を語ることによって、彼は自分の周囲にいる人々をよりよくし、彼らを高め、彼らに天と栄光を指し示し、彼らが地上のどんなものにも勝って、永遠の実体、不死の嗣業、朽ちることのない富を求めるように導こうと熱心に努力することができる。
 「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と使徒は言っている。わたしたちが行くところはどこへでも、わたしたちはクリスチャンの希望にあふれた快活な雰囲気をたずさえて行くべきである。そのとき、キリストのうちにいない人々は、わたしたちの告白する宗教のうちに魅力を認める。不信者たちはわたしたちの信仰の一貫性を見るようになる。わたしたちはすべてが明るさと喜びの地である天の光景を、もっとはっきりとらえる必要がある。わたしたちは満ち満ちている祝福された望みをもっと知る必要がある。もしわたしたちが絶えず、「望みをいだいて喜」んでいるならば、わたしたちは出会う人々に励ましの言葉を語ることができる。……
 わたしたちが互いに感謝と喜びの言葉を語ることによって、神に栄光を帰すべきなのは、日常における信者と未信者の間の交わりにおいてばかりではない。クリスチャンとして、わたしたちは自分たち自身の生気を回復するために、またわたしたちが受けた慰めを与えるために、自ら集会を持つことをやめないようにと熱心に勧められている。一週間二週間と催されるこれらの集会において、わたしたちは神のいつくしみ深きことと、多岐にわたる恵みを、罪から救うこのお方の力を瞑想するべきである。容貌と気質と言葉と品性において、わたしたちは神の奉仕は良いものであるということを証言しなければならない。こうしてわたしたちは「主の戒めは完全であって、魂を改心させる」と宣言するのである。
 わたしたちの祈りと社会的な集会とは特別な助けと励ましの時となるべきである。……これは毎日神の事柄について新鮮な体験をしているとき、また神の民の集会の中でこのお方の愛について語ることをためらわないときに、もっとも良く成し遂げられる。……
 わたしたちがもっとイエスについて考えたり、語ったりすることを多くし、自分自身のことについては少なくするなら、もっとはるかにこのお方のご臨在を得るようになる。もしわたしたちがこのお方のうちに宿るならば、わたしたちは平安と、信仰と、勇気に満たされ、また集会に来るときに語るような勝利に満ちた経験をするようになる。他の人々は、わたしたちがはっきりと力強く神の証をすることによって、生気を回復されるのである。このような神の恵みの栄光の讃美に対する尊い認識が、キリストのような品性によって裏付けられるとき、抗しがたい力を持ち、魂の救いのために働くのである。(サザン・ウオッチマン1905年3月7日)

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