「神が許すことのできない罪」

 「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイ12:31)

 罪がどんなものであろうと、もし魂が悔い改めて信ずるなら、その不義はキリストの血によって洗われる。だが聖霊の働きをこばむ者は、悔い改めと信仰のとどかないところにわが身をおいているのである。神が心に働かれるのは、みたまによってである。人が故意にみたまをこばみ、それをサタンから出たものであると断言するとき、彼らは神が彼らとまじわることのおできになる道を自らとざすのである。みたまが最後までこばまれるとき、神はもうそれ以上魂のためにつくすことがおできにならない。……
 人々の目をめくらにし、心をかたくなにするのは神ではない。神は彼らのあやまちを正し、彼らを安全な道にみちびくために光をお送りになる。目がめくらになり、心がかたくなになるのは、この光をこばむからである。この過程は徐々でほとんど気がつかない場合が多い。光は、神のみことばを通し、神のしもべたちを通し、あるいはみたまの直接の働きによって魂にのぞむ。だが一すじの光が無視されると、霊的知覚力が部分的に麻痺し、次に光があらわされたとき、それは前ほどはっきりみとめられなくなる。こうして暗さが増し、ついには魂に夜がおとずれる。……
 暗黒の王国の支配にはいるためには、わざわざその国の奉仕をえらぶ必要はない。光の王国と同盟することをおこたりさえすればよい……聖霊に対する罪として最も一般的なものは、悔い改めをうながす天の招きをどこまでもあなどることである。キリストをこばむ一歩一歩は、救いをこばみ、聖霊に対して罪を犯す一歩である。(各時代の希望中巻38-42)
 魂がキリストに屈服するとき、新しい力が新しい心を占領する。人が自分自身ではなしとげることのできない変化が行われる。それは超自然の働きであって、人の性質に超自然の要素をもたらす。キリストに屈服した魂は、キリストご自身のとりでとなり、キリストはそれをそむいた世の中に保たれる。キリストはその中でご自身の権威よりほかの権威がみとめられないように望まれる。このように天の勢力によって占領された魂はサタンの攻撃に攻め落されることがない。(同上41)

よろしくお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村