「イエスは全人類にとっての友」

「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました。」(へブル10:9)


 天来の教師としてのキリストの威厳は、祭司や支配者の威厳よりもはるかに高いものであった。その地位は神性であったので、あらゆる世の華やかさとはまったく異なっていた。キリストはあらゆる世的な人目を引くことをせず、裕福や地位によって固定された社会の階級を価値のないものとみなしていることを示された。このお方は……人間に神の子となるための力をもたらすために、ご自分の崇高な指揮官の立場から降りてこられたので、地上の地位は、このお方にとって何の価値もなかった。キリストは、人類を贖うご自分の働きにおいて、ご自分を助けるためであれば、幾千もの天使を連れてくることがおできになったのである。
 キリストは裕福な家、王家の宮殿、学者としての高名な地位を通り過ごし、人目につかない軽蔑されていたナザレに住み、初めから終りまで身分の低いへりくだった生涯を過ごされた。貧困はこのお方の貧しい生涯によって聖なるものとなった。このお方は、みもとに来て教えを聞こうとする身分の低い男女を締め出そうとするような態度の威厳を身につけようとはされなかった。……
 わたしたちの主イエス・キリストがなさったようにこれほどすぐれた栄誉を授けた教師はかつていない。このお方は取税人や罪人の友として知られ、あらゆる階級の人々と交わり、真理の種を世に播かれた。市場や礼拝堂でご自分のメッセージをはっきりと示し、あらゆる種類の苦しんでいる人々を身体的にも霊的にも救済された。すべての水のほとりに真理の種をまかれた。このお方のただ一つの願いは、すべての者が霊的、身体的な健全を持つことができることであって、このお方はあらゆる人間の友であった。キリストはご自分を受け入れるすべての者に命と光をもたらすと堅く誓わなかったであろうか。この人々に神の子となる力を与えると約束されなかったであろうか。このお方は魂を救う働きのために、まったく完全にご自身を捧げられたのである。……
 キリストが「よい働きをしながら、巡回され」た時、日々の経験はご自分の命のほとばしりであった。そのような命はただ一つの方法でのみ支えることができた。イエスは神により頼み、神との交わりのうちに生きられた。至高者の密室で、全能者の陰で人はときどき回復する。彼らはしばらくの間とどまり、その結果は気高い行為にあらわれる。それから彼らの信仰は衰え、交わりが妨げられ、生涯の働きが傷つく。しかしイエスの生涯は絶えまない信頼の生涯であり、とぎれることのない交わりによって支えられていた。そして天と地のためのこのお方の奉仕は、失敗もくじけもしないのであった。キリストは、人としてご自分の人性が、人性と神性をつなぐ天の流れで満たされるまで、神の御座に嘆願された。神からの命を受けて、キリストは命を人々に分け与えられた。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1905年6月7日)


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