「行動を支配する原則、愛」

 「わたしたちは言葉……だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第一3:18)


 神の愛は、キリストがお示しになった同じやさしい同情を示すようわれわれに求めるとき、人の心に最も感動的な訴えをする。兄弟に対して無我の愛を持つ人だけが、神のために真実の愛を持っている。ほんとうのクリスチャンは、危険や欠乏の中にいる魂に、警告や保護を与えもせずにその人を去らせたいと思わない。彼は、魂が更に不幸や失望に陥っているのに、あるいはサタンの戦場に倒れているのに、身を誤ったその人たちから超然としていることはできない。
 キリストのやさしい、心をとらえる愛を経験したことのない人たちは、ほかの人々をいのちの泉に導くことはできない。心のうちにあるキリストの愛は、強く迫る力であり、それは会話をとおし、やさしい同情に満ちた精神をとおし、彼らが交わっている人々の生活の向上をとおしてキリストをあらわすよう彼らを導く。クリスチャンの働き人が仕事の成果をあげるには、キリストを知らなければならない。そして、キリストを知るには、キリストの愛を知らなければならない。天では、働き人としてふさわしいかどうかは、キリストが愛されたように愛し、キリストが働かれたように働く彼らの能力によって量られる。
 「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と使徒ヨハネは書いている。人を助け、人を恵みたいという衝動が絶えず心からわき出るときに、クリスチャン品性は完成する。信者の魂をとりまくこの愛の雰囲気が、彼をいのちからいのちに至らせるかおりとし、その働きを神に祝福されるものとするのである。
 神に対する最高の愛、互いの無我の愛、これこそ、天父がさずけて下さる最上の贈物である。この愛は衝動ではなく、きよい原則、永遠の力である。献身していない心は愛を起こすことも、生じることもできない。イエスに支配されている心にだけ愛は見いだされる。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」神の恵みによって新たにされた心にとって、愛は行動の主原則である。愛は性質を修正し、衝動を支配し、感情を制御し、愛情を高める。心に抱かれたこの愛は、人生を麗しくし、清澄にする感化を周囲に与える。
 ヨハネは、愛の精神を実行するときにやってくる高尚な特権を信者に理解させようとした。このあがないの力は、心を満たして、他のすべての動機を支配し、その人を世の堕落した感化の及ばないところに高める。そしてこの愛が十分に力を発揮できるようになり、また、人生における原動力になったとき、神と、彼らに対する神の取り扱いとに対する信頼と確信は完全になる。(患難から栄光へ下巻253〜255)


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