「わたしたちは魂を天に結びつけることができる」

 「主はわたしたちに、こう命じておられる『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』。」(使徒行伝13:47)


 多くの自称クリスチャンは、礎石の上に木、草、または、わらを積み上げている。それらは終わりの日に火で燃やし尽くされるものである。彼らはうんざりするような働き、黄金のときを使い果たしてしまう働きに従事している。しかしそれはなされる必要のない働きなのである。彼らの時間はとられてしまい、彼らの活力は使い果たされるが、この世の生涯においても、来世の生涯においても不死の命という尊い報いをもたらすことはない。霊的な働きが思いをしめて、タラントがイエスの奉仕に用いられるときとは何という違いであろう!このお方がわたしたちに与えてこられた光は、そのときまっすぐに凝縮された光線として他人へと輝き出るようになる。わたしたちがイエスのためにすることはすべて、わたしたちがこの世の生涯をもっと楽しむことができるようにさせるのである。
 ああ、すべての人がわたしが見たように、魂がイエスの許へ来るのを助けるために自分たちの能力の最善を尽くして、へりくだりと柔和のうちに働いてきた人々の喜びをみることができるならよいのだが!ああ、救われた魂がそのために助けてくれた人たちに天の住まいで感謝を述べるときの喜びを働き人たちが悟るなら!
 キリストが唯一の贖い主として栄光をお受けになるとき、群衆からは自分たちの救いのために用いられた人間の器に対する感謝があふれでる。自分たちを救い出してくれた人々への彼らの感謝は、次のような言葉で表現される。「わたしはわたしの贖い主をはずかしめ、侮辱するような道を歩んでいました。あなたはわたしの魂に対して愛を表してくれました。あなたはわたしに神のみ言葉を開いてくださいました。わたしは滅びの瀬戸際にいました。あなたの祈り、あなたの涙ながらの嘆願、あなたの真剣な関心がわたしの注意を捉えました。わたしは、あなたに真理があるに違いないと思いました。そうでなければ、あなたは他人の救いのためにあれほど熱心になるはずがありません。わたしは自分自身で神のみ言葉を読みました。そしてあなたがわたしに話したことが真理であることを見出しました。わたしは救われています。そしてわたしは、わたしの贖い主の比類のない憐れみと許しの愛のゆえに、このお方をほめ讃えます」。
 自分たちはほんのわずかなことしかできないと考える人々は、そのわずかをするためにあらゆる機会を活用すべきである。それが、もっとも長い鎖の最後のつなぎの輪となるかもしれないのである。他人の感化力から離れていると、それはわずかな価値しかないように見えるかもしれない。しかし、状況という神の偉大な鎖の中で、それは魂を天に結びつけるつなぎとなるかもしれないのである。その気さえあれば、すべての人に何かできることがある。しかしあまりにもしばしば、彼らの救い得たはずの魂が人間の努力の及ぶ範囲を超えていってしまうまで、なしえたはずのことをしないように利己心によって妨げられるのである。
 親愛なる兄弟姉妹方、あなたは神の啓発を必要としている。あなたが世の贖い主と本来もつべき緊密な関係を持っているならば、あなたは自分の人類同胞を救うために迅速で断固とした個人的な努力を払うように導かれるはずである。神の民の将来は現在にかかっている。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1886年1月28日)

よろしくお願いいたします。

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