「人を取る漁師は神のご臨在を必要としている」

 「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。……そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。」(ルカ5:4〜6)


 生きた信仰のうちにイエスに従い、このお方の栄光だけに目を留めている人はだれでも、失望して意気消沈したこれらの漁師たちが、奇跡的な漁獲によって自分たちの舟がいっぱいになっているのを見たように、確かに神の救いを見ることになる。彼らが魚を獲ろうと努力したときに成功したのは、イエスが舟に乗っておられたからであった。救い主の内住も全く同様に、魂を勝ち取る働きにおいて必要である。
 人類を救うために、天の大権者、栄光の王であられるキリストは、ご自分の王冠と王衣を脇において、神性に人性をまとい、わたしたちの贖い主としてこの地上に来られた。33年間、このお方は人々の間で、人間の生涯を送られ、わたしたちが直面しなければならない誘惑に会われ、そして上より与えられた力を通して勝利なさった。このお方の神性は、華々しい見せびらかしや王権に表されることはなかった。このお方はご自分を天の御使の大軍勢で取り囲み、それによってすべての者がご自分を信じるようにと誘導することもおできになった。しかし、これは神のご目的にかなうものではなかった。
 キリストは人類のかしらとして立つために来られた。そして聖霊の力を通して、人間がサタンの誘惑に耐えることは可能であるということを示すために来られた。その長い人間としてのみ腕で、救い主は人類を抱き、このお方の神のみ腕をもって、無限のお方の御座をつかんでおられる。……
 わたしたちは自分自身の力で、勝利するために最善を尽くして、敵の誘惑に立ち向かおうと努力するかもしれない。しかしわたしたちは、失望に次ぐ失望に直面することになる。キリストは弟子たちが、骨折りが報いられなかった夜の後、この状態にあるのをご覧になった。彼らは悩み、困惑していた。彼らに命じて、キリストは「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と仰せになった。
 漁師たちはその夜長い間労したのであった。彼らは期待しては、しばしば失望させられ、何度引き上げても、網は空であった。神のご臨在が彼らと共にあったとき、そして彼らが、このお方のご命令に、もう一度自分たちの網を海に下ろしたとき、彼らは何と豊かに集めいれたことであろう!彼らはこんな大漁を扱う準備ができていなかった。……奇跡的な漁獲を目の当たりにして、ガリラヤの漁師たちの不信は一掃された。そして彼らはキリストが、ご自分に従って人間を獲る漁師になるために学びなさいと招かれたときに応える用意ができた。……わたしたちが自分たちの人間の努力でどんなに長く、忠実に労したとしても、本物の成果を期待することはできない。しかし、わたしたちがキリストを心のうちにお迎えすると直ちに、このお方はわたしたちと共に、わたしたちを通して、魂の救いの働きを進められるのである。(原稿67, 1903年

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