2011年第3期8課 「群衆のための食物」

 「飢えた群衆の一時的な必要を満たされたキリストの行為の中に、ご自分のすべての働き人に対するキリストの深い教訓が含まれている。キリストは天父からお受けになった。彼は弟子たちにお与えになった。弟子たちは群衆に与え、人々は互に与え合った。同じように、キリストにつながっている者はみな、キリストから天の食物であるいのちのパンを受け、それを他人に与えるのである。」―各時代の希望中巻p112


人々を癒し教える


1.イエスは非常に多くの人々が困窮しているのをご覧になった時、どのように感じられましたか。何が彼らにこのお方に従うようにさせましたか(マタイ14:14; ルカ9:11; ヨハネ6:2)。


 「イエスは、人々がぞくぞくとやってくるのをごらんになったとき、彼らの世話をすることがもっと必要であることに気がつかれた。イエスは、「飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれ」まれた(マルコ6:34)。イエスは、かくれ場所を出て、人々に奉仕するのに都合のよい場所をみつけられた。人々は、祭司たちと役人たちからは何の助けも受けなかった。しかしキリストが群衆に救いの道をお教えになったとき、いやしを与えるいのちの水がキリストから流れ出た。
 人々は神のみ子の口から豊かに流れ出るあわれみのことばに耳をかたむけた。彼らは恵み深いことばをきいたが、それは単純で、率直で、彼らの魂にとってギレアデの香油のようであった。キリストの聖なるみ手によるいやしによって、死にかけている者にはいのちとよろこびが与えられ、病気に苦しんでいる者には安心と健康が与えられた。その日は彼らにとって地上の天国のように思われ、彼らは、もう何時間もものを食べていないことなどまったく念頭になかった。」―各時代の希望中巻p103,104


2.イエスが多くの人々に慰めの祝福の言葉を与えられた長い一日が終わり、夜が近づくにつれて弟子たちはこのお方に何をするようにと促しましたか(マタイ14:15; マルコ6:36)。


 「ついにその日もほとんど過ぎ去った。太陽は西に沈みかけていたが、まだ人々は立ち去りかねていた。イエスは、終日、食事も休息もとらずに働かれた。イエスが疲れと空腹で青い顔をしておられたので、弟子たちは働きをやめてくださいとたのんだ。しかしイエスは、まわりにつめかけている群衆から退くことがおできにならなかった。」―各時代の希望中巻p104


彼らに食物を与えてください


3.イエスはこの提案にどのように応じられましたか(マタイ14:16; マルコ6:37, 上句)。そのような発言に対して、普通の人は何と答えるでしょうか。

 
 「このお方は心地よい場所に人々を集めて、座るように彼らに命じられた。そしてこのお方は五つのパンと二匹の魚を取られた。きっと五千人もの空腹な人々を満足させることは不可能だと多くの者は言ったであろう。……」―教会への証6巻p263


4.イエスがピリポに、群衆のためにどこでパンを買うことができるかと聞かれた目的は何でしたか(ヨハネ6:5-7)。


 「ピリポは並いる人々を上からながめて、この大衆に、食物を与えることはいかにも不可能だと思ったので、各自がわずかずつ食しても二百デナリのパンでは足りませんと答えた。」―ミニストリー・オブ・ヒーリングp24
 「弟子たちは、ついにイエスのもとにきて、群衆自身のためにも彼らを去らせてくださるようにとすすめた。多くの者は 、遠くからきていて、朝から何も食べていなかった。彼らはまわりの町や村で食物を買うことができるかも知れなかった 。しかしイエスは、『あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われ、ピリポをふり向いて、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」とおたずねになった(マルコ6:37,ヨハネ6:5)。イエスがこう言われたのは、この弟子の信仰をためすためであった。ピリポは人の波を見わたして、これほどの群衆の欲求を満足させるだけの食物を準備することは不可能だと思った。彼は、二百デナリのパンを買っても人々にくばるほど十分ではなく、たとえくばってみてもごく僅かずつしかないでしょうと答えた。」―各時代の希望中巻p104,105 


群衆のための食物


5.女と子供を除いてどれぐらいの人がいましたか。イエスは手元にある少しの食物をどうされましたか(マタイ14:17, 18, 21; ルカ9:14; マタイ14:19)。


 「イエスは、それを持ってくるようにお命じになった。それからイエスは、弟子たちに、人々の秩序を保つためと、イエスがしようとしておられることがみんなに見えるように、五十人か百人ずつの組にして草の上にすわらせるようにお命じになった。その通り実行されたとき、イエスは食物を手にとり、『天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。みんなの者は食べて満腹した。』」―各時代の希望中巻p105


6.主が少ないパンを祝福された後、何が起こりましたか。すべての人は天の倉からどれぐらい受けましたか(マタイ14:20 上句, 21)。


 「わずかな供給は、キリストのみ手の下で増え、このお方はお腹をすかせた群衆に配る僕たちのために常に新鮮な供給を与えられ、ついにすべての者が十分に食べた。」―牧師への証p344, 345
 「わずかな蓄えから女と子供以外の五千人もの空腹な人々を満足させることは、不可能だと多くの者は言ったであろう。しかしイエスは感謝をささげられて、群衆に配るために食物を弟子たちの手におかれた。彼らは群衆に与え、食物は彼らの手の中で増えた。そして群衆が満足した時、弟子たちも座ってキリストと共に天来の蓄えから食べた。これはキリストに従うすべての者にとって尊い教訓である。」―教会への証6巻p263
 「五千人に食物をお与えになったことによって、イエスは、自然界のベールを開いて、たえずわれわれの幸福のために働いている力をお示しになる。地の作物の生産に、神は毎日奇跡を行っておられる。自然の働きを通して、あの群衆に食物を与えたのと同じ働きがなしとげられる。人は土地をたがやし、種をまく。だが種子を発芽させるのは神からのいのちである。……地の作物畑から毎日幾百万の人々を養われるのは神である。」―各時代の希望中巻p108


7.すべての者が食べ終わった後、パンのかごがいくつ余りましたか(マタイ14:20, 下句; ヨハネ6:12)。この奇跡には他にどのような教訓が含まれていますか。


 「われわれもまた困難な立場におちいった時には、神によりたのむべきである。われわれは、向こう見ずな行動によって苦境におちいることがないように、人生のひとつびとつの行為に、知恵と判断とを働かすべきである。神がお備えになった手段を無視し、神がわれわれにお与えになった才能をまちがったことに用いて、困難にとび込むようなことがあってはならない。キリストの働き人は、絶対的にキリストの教えに従うべきである。この働きは神の働きである。だから他人の祝福になりたければ、神のご計画に従わねばならない。自我を中心とすることはできない。自我が誉を受けることはできない。もしわれわれが自分自身の考えにしたがって計画すれば、主は、われわれをわれわれ自身の誤りの中に放置される。しかし神の指示にしたがっていて、それでも苦境におちいるようなことがあれば、神は、われわれを救ってくださる。われわれは落胆してあきらめてしまわないで、どんな危急のときにも、無限にどんな手段でもお用いになれる神に助けを求むべきである。われわれは、しばしばきびしい境遇にとりかこまれることがあるが、そういう時こそ絶対の信頼心をもって神によりたのまねばならない。神は、主の道に従おうとして困難におちいっている魂をひとりももれなく守ってくださる。」―各時代の希望中巻p110,111


瞑想のために


 「弟子たちは、キリストと民との間の伝達のチャンネルであった。このことは今日のキリストの弟子たちにとって大きな励ましでなければならない。キリストは大中心、すなわちすべての力のみなもとである。キリストの弟子たちは、キリストから補給を受けるのである。どんなに賢明な者でも、どんなに霊的な心を持った者でも、受けるときにのみ与えることができる。彼らは自分自身では魂の必要を何一つ満たすことができない。われわれは、キリストから受けるものだけを与えることができる。われわれはまた、他人に与えるときにのみ受けることができる。われわれは、たえず与えるときに、たえず受ける。そして多く与えれば与えるほどますます多く受ける。こうしてわれわれは、たえず信じ、頼り、受け、与えることができるのである。」―各時代の希望中巻p112,113


もっと詳しい研究のために

・ マタイ14:13-21; マルコ6:32-44; ルカ9:10-17; ヨハネ6:1-13;
各時代の希望中巻p103-115; ミニストリー・オブ・ヒーリングp24-28


神の摂理に信頼する


・ わたしたちに何もない時、主はどれほど多くの可能性を持っておられますか。