32「三青年訴えられる」

  「その時、あるカルデヤびとらが進みきて、ユダヤ人をあしざまに訴えた。すなわち彼らはネブカデネザル王に言った、『王よ、とこしえに生きながらえられますように。 王よ、あなたは命令を出して仰せられました。すべて、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く者は皆、ひれ伏して金の像を拝まなければならない。また、だれでもひれ伏して拝まない者はみな、火の燃える炉の中に投げ込まれると。ここにあなたが任命して、バビロン州の事務をつかさどらせられているユダヤ人シャデラク、メシャクおよびアベデネゴがおります。王よ、この人々はあなたを尊ばず、あなたの神々にも仕えず、あなたの立てられた金の像をも拝もうとしません。』」ダニエル書3:8〜12
 
 ユダヤ人を訴えたカルデヤ人は、多分前章の王の夢を解明することができないで、大失敗をしたことから、今なお恨みに思っていた魔術師たちであったであろう。彼らはユダヤ人を王に訴える口実を常に窺い、どうにかして彼らを辱しめ、あるいは滅ぼそうとしていたのであろう。彼らはユダヤ人の忘恩のことをもって、王に彼らを悪く思わせようとし、しきりにあてこすりを言った。すなわちあなたが彼らを立ててバビロンの国務に与らせたにもかかわらず、彼らはあなたを尊ばないと言った。この時に際してダニエルがどこにいたのかは不明である。多分彼は臨席しなければならない重要な国務のために出張していたのであろう。しかしシャデラク、メシャク、アベデネゴはこの像を拝まないことを知りながら、なぜそこに出席したのであろうか。それは彼等の主義信仰を曲げることなしに、彼らのなし得る範囲において王の命令に服従しようとしたものではなかろうか。王は彼等が臨席することを命じた。この命令に対して彼等は服従することが出来るのである。であるから彼らはそこに臨席したのである。そこで王は彼らに像を拝むことを命じた。しかし、
第1条「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
第2条「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。・・・」とは神の十誡の厳然と示すところである。彼らとしてはどうしてもそれに応じる事はできなかった。
 「すべての者は像にひれ伏すことを、礼拝の行為として理解するのであった。彼らはこのような尊敬を、ただ神にしかあらわすことができなかったのである。」―国と指導者41章


 三青年燃える炉に入れられる


 「そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。ネブカデネザルは彼らに言った、『シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか。』シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、『ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。』」ダニエル書3:13〜18

 王の寛大な処置は、シャデラク、メシャク、アベデネゴに今一度金の像に拝する機会を与えた事によって示されている。勿論彼らは命令を十分了解していたのであるから、知らなかったとは言いえないのである。彼らは王の意志をよく知っていたのであるから、彼らが服従しなかったのは故意に服従しなかったので、十分考慮した結果王の命令に服することを拒否したのである。であるから大抵の王ならばそれだけで彼らの運命を定めるのであるが、しかしネブカデネザルは、もし彼らが2回目に王の命令に服するならば、最初の罪を黙認すると言った。すなわち再び金の像を拝する機会が与えられても、我々の決心はついているのだから、猶予をあたえていただかなくても、いま直ちにお答することが出来る。しかし我々の答は、我々はあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝せず、もしわれわれの神がわれわれを救ってくださればよし、もしそうでなくても良い。我々は神意を知っているのであるから絶対それに服従するのであると言った。実に彼らの回答は正直で断定的なものであった。けれどもその態度は謙遜で言葉も慇懃(いんぎん)であった。

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