7「王にして祭司なるキリスト」


 4節および3節の上句に記された挨拶をした後、ヨハネは「我らを愛し」給う救い主キリストを賛美している。読者よ、キリストの愛の深さを考えてみよ。・・・キリストは愛する者のためだけでなくその敵のために命を捨てられたのである。すなわち彼は我々がなお罪人であった時、我々のために死なれたのである。ここに「愛し」という言は原語においては現在時制を用いているが彼は限りない愛をもって我々を愛し、また「われわれを罪より解き放」ってくださった。罪は最も恐るべきくびきであって、その虜となる者は、悪魔の罠の中にあって弱められ、束縛され、苦しめられ、ついに永遠の滅亡に陥れられるのである。元来人は皆罪を犯したものである。(ローマ3:23参照)しかしこの中にも二つの階級がある。すなわちその一つは罪から解放された人と、まだ罪の中にある人とである。が、感謝すべき事には聖書に「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)とあるように、我々の救いの値はすでに払われたのであるから、我々が罪と死の絆より解き放たれる事を望むのなら、ただイエス・キリストを信じさえすれば良いのである。そうする時に我々はすでに神の御計画の中にあって王となり祭司となるのであるが、これこそ人類に与えられる最高の名誉である。神の聖徒は「王なる祭司」となり、また神の国の特別な民となり、さらに自ら王となってキリストの位に座するに至るのである。(黙示録3:21,7:15,20:6)我々がこの世においてキリストの十字架を担う時に、彼は神の国において我々を王座につけてくださるのである。しかしこの世界より救われる者は、堕落しない他世界の聖徒たちの味わうことのできない密接な交わりを神と結ぶ事を許され、そのうえ位に座する喜びに入ることができるのである。地上においては何らの地位財産を持っていなかった者でも、神の国に入る時にはこの最高の名誉と特訓に与ることができるのである。
 読者諸君よ、恩恵時代の終わりを告げられる前に十字架の教えを信じてキリストの教えを受けようではないか。「さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように」とのキリストの賛美に対して「アァメン。」との言葉を信仰によって出し、ヨハネと共に主イエスの御名を賛美しようではないか。

ブログ村ランキングに参加しています。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村